「自由」 について
「アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。」
これは映画「イージー・ライダー」の中でジャック・ニコルソンが語った台詞だ。
僕はこの映画を観たのが40年近く前の高校2年の時だったと思う。
今まさに新鮮な言葉として受けとめられる。
当時、規則の多い高校生活から観ると自由である事はかけがえのない事だと思っていたし、音楽をする事も考える事も、酒やタバコを吸う事すらも全て自由で良いと思っていた。
しかしこの映画を観て以降、自由が本当に全て受け入れられる物なのか疑問視するようになった。
いつしか日本はとてつもない個人主義の国となった。
「人に迷惑をかけなければ何をやっても良い」という考えの元、結局人と付き合わなければ自由は守れる、と思ったに違いない。
今や親と子の間の接点が無くなりつつあり、それは急に始まった事でなく、親と祖父の時代に徴候は現れていた事だ。
例えば日本青少年研究所が「家庭内のルール」について日本とアメリカと中国で比較調査している表があるが(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/reserch/index.html)
「金の使い方についてルールがある」日本29.6%、米国58.2%、中国70.5%
「門限など時間を守ることについてルールがある」日本46.4%、米国60.8%、中国70.3%
「友人との付き合いについてルールがある」日本11.1%、米国35.8%、中国51.3%
「勉強についてルールがある」日本28.9%、米国54.7%、中国78.5%
そして 「どんなことをしてでも親の面倒をみたい」日本:43.1%、米国67.9%、中国:84.0% と、
このとんでもない自由主義のアメリカよりも遥かに日本は「個人の自由」「個人の勝手」なのである。
親と子の接する時間が異常なほど減っている。接点が少ないほど自由が守れるからだ。
逆に友達との接点は妙に気を使いながらでしゃばらないようしている。
異端となっての「いじめ」が怖いからだ。
奴隷の生活や、蹂躙を余儀なくされている訳でもないのに、「自由」と言うのはそんなに大切な物だろうか?
少なくとも現代の中の個人の自由は前向きな事は何もない。
自分一人の自由と時間の権利を主張し、閉じこもっていられるだけ入れる事を保証する物でしかない。
なんという為体。この中で人と人とがつながって何かことを起こす事もなければ、社会も変わっていかない。
変えてくのは一部の政治家の利害と、インターネットの運営に動かされているだけである。
本来日本の美徳とされていた「忍耐」「無我」「潔い」という言葉は一部のスポーツ根性ドラマの中にしか残されず、他人のために何か働く事のない日本は、今まさに「自由」の名の元に滅びようとしている。
少しは自由の範囲を限定して、他は束縛されていても良いのではないか?
僕はと言えば、音楽する自由、考える自由、酒と僅かばかりの旨い物を食べるひとときの自由以外は、家族や観客や世間の人が幸せになれるならそのために束縛されていても構わない。
難しいことだが、そうありたいと思っている。