Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2008/06

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「自由」 について

「アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。」
これは映画「イージー・ライダー」の中でジャック・ニコルソンが語った台詞だ。

僕はこの映画を観たのが40年近く前の高校2年の時だったと思う。
今まさに新鮮な言葉として受けとめられる。
当時、規則の多い高校生活から観ると自由である事はかけがえのない事だと思っていたし、音楽をする事も考える事も、酒やタバコを吸う事すらも全て自由で良いと思っていた。
しかしこの映画を観て以降、自由が本当に全て受け入れられる物なのか疑問視するようになった。
いつしか日本はとてつもない個人主義の国となった。
「人に迷惑をかけなければ何をやっても良い」という考えの元、結局人と付き合わなければ自由は守れる、と思ったに違いない。
今や親と子の間の接点が無くなりつつあり、それは急に始まった事でなく、親と祖父の時代に徴候は現れていた事だ。

例えば日本青少年研究所が「家庭内のルール」について日本とアメリカと中国で比較調査している表があるが(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/reserch/index.html

「金の使い方についてルールがある」日本29.6%、米国58.2%、中国70.5%
「門限など時間を守ることについてルールがある」日本46.4%、米国60.8%、中国70.3%
「友人との付き合いについてルールがある」日本11.1%、米国35.8%、中国51.3%
「勉強についてルールがある」日本28.9%、米国54.7%、中国78.5%
そして 「どんなことをしてでも親の面倒をみたい」日本:43.1%、米国67.9%、中国:84.0% と、

このとんでもない自由主義のアメリカよりも遥かに日本は「個人の自由」「個人の勝手」なのである。
親と子の接する時間が異常なほど減っている。接点が少ないほど自由が守れるからだ。
逆に友達との接点は妙に気を使いながらでしゃばらないようしている。
異端となっての「いじめ」が怖いからだ。

奴隷の生活や、蹂躙を余儀なくされている訳でもないのに、「自由」と言うのはそんなに大切な物だろうか?
少なくとも現代の中の個人の自由は前向きな事は何もない。
自分一人の自由と時間の権利を主張し、閉じこもっていられるだけ入れる事を保証する物でしかない。
なんという為体。この中で人と人とがつながって何かことを起こす事もなければ、社会も変わっていかない。
変えてくのは一部の政治家の利害と、インターネットの運営に動かされているだけである。

本来日本の美徳とされていた「忍耐」「無我」「潔い」という言葉は一部のスポーツ根性ドラマの中にしか残されず、他人のために何か働く事のない日本は、今まさに「自由」の名の元に滅びようとしている。
少しは自由の範囲を限定して、他は束縛されていても良いのではないか?

僕はと言えば、音楽する自由、考える自由、酒と僅かばかりの旨い物を食べるひとときの自由以外は、家族や観客や世間の人が幸せになれるならそのために束縛されていても構わない。
難しいことだが、そうありたいと思っている。

僕がビートルズを知ったのは確か東京オリンピックの年、10才=小学校4年生の時だ。

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ビートルズ世代はもう少し年上で、早熟な部類になると思う。
最初は本人たちの演奏でなく、物まねだったり、日本人がカバーしたような物で、それだけでも「なんだこれは?」と異様な音楽に興味を示し、TVで本物の音が僅かに流れただけで「これを自分の物にしたい」と思うようになった。
ようやくジュークボックスで「A Hard days night 」に出合った時は、おそらく救いを求めていた民が神に出合ったような感動を覚えた。
僕がもし人より才能があるとすれば、誰の影響でもなく、自分一人でビートルズを良いと思い、自分で求めて出合えたことのみだ。

ビートルズは他と何が違ったかと言えば、もちろんそれまでにはないメロディと和音の流れ、それまでにはないヴォイスハーモニーの組み方、ダブリング(一人でボーカルを重ねる)と独特のコンプレスされた(音圧を圧縮して大き過ぎないようにする作業)サウンドと、そしてファッションだ。
詞の世界は残念ながら未だに意味は解っても体感出来ない。
ただ詩から生まれるニュアンスが他の言葉に置き換えると全く趣が異なるとこだけは言える。
自分ででたらめな言葉を並べても感動は出来ないのだ。
あの言葉の響きが良いのだ。
ポピュラーの世界でプレスリーを始め、ビートルズ以前のアーティストとももちろん独特な部分あるが、何が違うかと言えば、最も大きいところは「世界にひとつしかない形を、自分たちの手で世に存在させ得た」ことだと思う。

無論、ビートルズもプレスリーやデュランや多くのR&Bの影響を受けている。
そこからオリジナリティを持つ事は至難の業であるが、ただその差違は大きな事ではない。
本当はちょっとした工夫で素晴しく変で、カッコよくなる。そのセンスを磨く事だ。
ジョンがメインのメロディを作ると、サビをポールが作ったりする異質な物同士の化学反応も初期の味となっている。

ジョンはメロディアスではない、あの声と声域を巧に使った、彼でしかない、(本当は他人には歌えない)独特なニュアンスが特徴な詩人だ。
反対にポールはおそらく世界一のメロディー作家で、彼の曲は誰が歌っても美しい。
ジョージもタイプの違う曲を持ち込むが、シタールの導入はさらに世界を拡げた。
リンゴは地味なようだが、一曲として同じ気分でドラムを叩いてはいないし、曲に対するリズムのコンセプトをこれほど明確に出す人もいない。
サウンドの中に、クラシックあがりのジョージ・マーティンのティストが加わっているのも大きな隠し味だ。
後期になるにつれてチェロや弦楽アンサンブル、オーケストラまで導入してくるが、それはポピュラーのバックアンサンブルの発想とはまるで違う事は明確だ。

僕は解散してからのそれぞれの彼らの活動はあまり興味がない。
ジョンの代表曲が「イマジン」だなんて思っている人には悪いが、「A Hard days night 」や「ノルゥエーの森」「Strawberry fields forever」なんかと比べると腑抜けの様な感じすらする。
後期のビートルズもばらばらになりながらもディレクターでありアレンジャーのジョージ・マーティンとのコラボは必ずしているし、他のメンバーが参加していなくとも、横のつながりとして打ちだしているのはあくまでビートルズのサウンドなのだ。

彼らは4人(+1人)でとてつもなく変で面白いものを作り上げた。
音楽家は憧れのアーティストを追っかけているだけではまだまだだ。
自分が強烈な個性を持ち、なおかつそれがねじ曲げられるほどの別要因が加わり、思ってもみないような形になる。
それはロマン派や印象派の偉大な作曲家を凌駕するほどの芸術性を持つものだ。
この先、同様にすごい連中、クリームやレッド・ツェッペリンなどのことも書いてみたい。
こういった連中のコンセプトが一介の音楽家では終わらず、時代を動かした訳だ。

最近、あるテレビ番組で、アフリカのペナンに住むゾマホンという人が、日本人の若者に対して「歴史を知らなさ過ぎる!!」と激怒している番組をたまたま見て、あまりに面白かったのでこれについて書きたくなった。
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まあこれは歴史に限った事ではないし、若者だけかと言うとそうでもないし、若者に多いとも言えるがもちろん全部ではない。
「知らなくて恥ずかしい」と思うくらいなら、今までその事が「恥ずかしい」と考えた事すら無い事自体が恥ずかしいとも言える。
若者は受験戦争と言われるさ中に多くは大学まで行って、アフリカの多くの国々よりは色々な知識を身に付けられる環境にある。
しかしながら入試を過ぎれば奇麗さっぱり何事もなかったの如く忘却の彼方に追いやる。
まるで知識がある事がカッコ悪いとまで思っているようだ。
毎日が面白ければいい。
異性の事やドラマの事、美味しいものの事、Mixiの会話の事ばかり考えていれば楽しい毎日。

アフリカは教育を受けたくても受けられない所が多い。
自分の国の事を知りたい。
歴史を知りたい。
他の国はどうなっているのか、身分制度はあるのか、国を豊かにする方法はあるのか、家族をもっと楽に食べさせる方法はないのか、いまの日本人にはそれがない。

少なくとも父親母親がどんな生き方をしてきたのか、どんな先祖だったのか、先祖は何をしたかったのか、何を考えてきたのか、そんな想像をほとんどした事もないだろう。
少しでもしているなら、何かその手がかりを得ようとするだろう。
結局、勉強なんて興味がなければ試験の為のみで身にもならずに忘れてしまう。
どういった人が優れているかと優劣を付けてしまうのも嫌な話だが、無限の興味があり、そこから生まれる広大な世界観を持ち、あらゆる生き方や違った文化を受け入れる器を持ち、そこから生まれる自然な知識と知恵を持った人間がやはり優れていると思う。
人間が進化してほとんどがそんな人間になれば、命を賭けるような争いなど起こりようがない。
何の為に勉強するか。それはイマジネーションの糧だと思っている。

親父たちの時代は何を考え何を見てきたのか?
石器時代にはどんな恋をしたのか?
生命は何の為にあるのか?
宇宙の果てはどうなっているのか?
ずっとスカートの中にあるものを追い求めるだけの人生もあるのかも知れないが、人間としての頭脳の持ち腐れである。他人に迷惑をかけなければ自分さえ良ければ良いなどと、所詮人間は一人だなどと、とんでもない勘違いをしている場合が多い。

無差別殺人はゲームのしすぎで起こる訳ではない。
全てのイメージの欠如がもたらす結果、更にその中の自制の効かぬ者がしでかす事だと思う。
親たちの教育は知識を詰め込む事ではなく、様々な事に興味をもたらすように仕向ける事が大事だ。
若者の多くにイメージが欠けるとすれば、それは今の若者の親たち、つまり我々の世代の家庭に原因がある。

若者たちとゾマホンさんよ、知識は確かに必要であるが、イメージの無い知識なんて何の価値もない。
別に知らない事がある事自体はそんなに恥ずべき事ではない。
中には1つの事に没頭した結果、いろんなことを知らない人間も居る。
でも、アフリカの状況を切々と聞かされ、それに対して平気でいられるほど、若者は個人主義になってしまったかも知れない。
そんな状況も学生ならいっぱい学んできたであろうに、アフリカの教育現場から見れば食べ物を粗末にしてる様にもったいない話しなんだろう。

僕のグループとしての音楽活動はすばらしく充実していますし、名も売れていますが、僕個人はさほど有名な音楽家ではありません。
それでも近年、個人的に依頼された仕事(作曲や編曲)はどれも依頼者からこれ以上はないほど称賛されるようになり、ようやく自分でも本当に満足できる作品をコンスタントに作ることが出来るようになったと思います。
問題なのは、満足いくものを作っても作っても、満足しなくなってきている自分が居るのです。

ものすごく傲ったように聞こえるでしょうが、自分の到達した境地(自分が確立した手法)と一般との間の隔たりなのでしょう。
それは「無能の人」で自分にしか解らない石を集め売っているような、それに近いような感覚なのです。

たとえばベートーベンの交響曲7番という今までほとんど日の目を浴びなかった曲が最近では誰もが良く知っている曲になっています。
これはテレビで「のだめカンタービレ」のテーマ曲になったからでしょう。
この曲は当時は大ヒット曲だったのですが、他の「運命」や「田園」「英雄」などのタイトルを持たなかった為に日本では無名の作品のようでした。
僕もこの曲は大好きでした。 結局表題というイメージの橋渡しがないと、全く流行らない・・・言ってしまえば、地球の裏側の西洋音楽とは異文化である日本人の聴くクラシックはそういった掛け橋がないと全く受け入れない。

僕のやっている音楽は紛れもない日本人の音楽ですが、手法は所詮西洋音楽の中です。
ある意味でいろんなことを極めて来た感はありますが、日本人の心にどうしても埋まっていかないことも感じていたりします。
そこはものすごく細かなところなのですが、説明すら出来ません。
僕のようなある意味で純音楽(=標題音楽では無い。これはこういったイメージ感じて下さいと限定したくない音楽=イメージは聴くものが自由に感じるままが良い)を作品に求めると、そんな日本の聴衆を考えた場合、なにかむなしい隔たりを感じるのです。

別に日本の聴衆が音楽が解らないといっているのではありません。
解説をしないとその音楽を聞く体勢になってくれないという事なのです。
自分ではある意味完璧なものを作っても、何と無力なものかと感じたりするところがあるのです。

話は何歩も先へ進んでしまうけれど、ようするにこうしている間に地球は汚れて行き、日本人はどんどん個人主義になり、家族すら希薄になり、政治は目の向けるべき方向を取り違え、町から商店が消えてゆき、豊かだった生産力は瀕死の状態にある。
まさに「音楽を聞いている時間があったらどうにかしろよ」と言いたくなる感覚が芽生えてくる。
偉大な芸術家たちに同じようなことが起こっていたのか解りませんが、ジョンレノンはビートルズの解散あたりから恐ろしくメッセージ性が強くなり、宮沢賢治は妹の看病に行ったその足で「国柱会」の門を叩いている。手塚治虫もピースボートに乗り、三島由紀夫は館の会を作る。

僕ごときがジレンマに陥るのも当然のことなのかも知れませんが、気がつくと歳から来るパワーの衰え、部屋の中はぐっちゃぐちゃ。
いろんなことをため込んでこのまま解放されないのかと思うとやんなってしまう。
まあ、こんなことを書きながら自分のすべき事を探しているのかも知れません。
おそらく何も出来ないで生涯を終えるのでしょうが、ひょっとしたら誰かがそれに共感したら、そこから何かを起こす人間が出てくるかも知れない。
万が一にもそんなことが可能なら僕が生きてきた意味は大きい。
まあblogと言うコミュニケーションの手段があるならそれを使ってみようと言うのが、事の真相なのです。
コメントを頂けると嬉しいのですが、Mixiのように日常会話のようになったり、義理で返信したり、足跡が付いたりするのは煩わしいのです。
別に友達を増やしたい訳では無いので、ただただ眺めているうちになにか言いたい事があった時のみ書いて下さい。誹謗中傷は困りますが、論点を掴んだ批判は大いに結構です。

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