Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2008/07

Georges_bizet
僕は生まれて間もない頃、おそらく最も影響を受けた音楽は「あわて床屋」でも「七つの子」でもなく、ビゼーの「カルメン」だった。

祖父はドイツ帰りの軍人で、グラモフォンから山のようにSP盤を持って帰っていた。
その中で何度も何度も聴きたがったのが「カルメン」のインスト(演奏のみの)レコードだ。
他には歌曲やジャズ、マンボ、広沢虎造などがあった記憶があるが、「カルメン」はレコードの傷のざらつき具合まで良く覚えている。
こう言うと、どこかのお坊ちゃまみたいで、フォークとナイフで食事をし、召使いを何人か囲うような生活かと思われるかも知れないが、戦後10年も経たない頃の日本の元軍人の生活は、維新後の武士と同じであまり働く事も出来ず、生活は大変だったようだ。
ただドイツ経由のレコードが山のように残されていただけなのだ。

さて、そのビゼーの「カルメン」であるが、38回転のレコードの時代になって再びインスト盤を買った。
アメリカのアンドレ・コステラネッツの演奏だった。
SP盤の時には入っていない知らない曲がまた好きになり(花の歌やミカエラのアリア)、そのうちカラスの全4幕のLPを持つ事になった。

僕は結局このコステラネッツの演奏が一番好きだった。
歌ではない肉感的な表現のないインストの世界、アレンジの良さ(編曲の違いも同時に感じた)、全てのシーンの絵が浮かんでいた。
あまりに好き過ぎて、未だに僕は「カルメン」のオペラは観た事がない。と言うか、観たくない。
テレビ放映ですらも観た事がない。
自分の描いた映像が数倍素晴しいと思うからこそ、がっかりするから一生観ない方が良いと思っている。
僕にとってこのビゼーが好きだった事と、中世古楽の道に入った事は無関係ではない。
まず19世紀の作曲家としてはかなりドローンやオスティナートを多用する事が多い。
ドローンとはバグパイプのブーンと伸びている伴奏と同じで、ハ長調で言えばドとソがずっとなっている中で、メロディは例えばドレミファソラシドの中を自由に駆け巡るような、ロマン派で言うと田園風と言うか民謡風と言うか、本来古学的と言うか、簡単に言うとそんな手法を多用している。
有名なハバネラ(メロディはビゼー作でないと言われている)も記憶だとベースが確か「レ」以外の音を鳴らしていないと思った。
他の曲でもロマン派の音楽だからどんどん調なども展開はするものの、エッセンスとしてドローンの響きが随所に出てくる。 舞台となっているのが「スペイン」や「プロバンス」あたりだから、その辺りの民謡などの雰囲気を取り入れればおのずと古楽風になってくる(実際には本人はあまりこの辺りを旅をした事がないらしいが)。
カルメンの序曲に続く死をイメージするプレリュードはまさにスペインを通り越してアラビア風と言っても良い。
アルルの女の「ファランドール」のエンディングのテーマなどはテーバーパイプ(片手笛、右手は太鼓=テーバーを叩く、古楽器だがプロバンス地方に特に多い)の為の曲だ。
また、リズム、あいのて、対旋律の絡ませ方等、様々な面で古楽的なエッセンスが顔を出す。

おそらくビゼーはさほど古楽を知らなかったと思うが、血や霊的なレベルでそういった感性を受け継いでいるに違いない。
ただ音楽手法の話は文章ではこれ以上しづらいので、後は聞いて感じて頂くのが一番かと思うので、ここまでにしておこう。
もう一つ付け加えるなら、古楽風だけでなく、ロマン派としては調性がどんどん移行する自由な感覚もビゼーの特徴だ。
「セギディリャ」や「花の歌」「ミカエラのアリア」などは古楽風でもなく、同時代の音楽とは全く違った自由な感性がある。この2面性もビゼーの面白みだと思う。

おそらくカルメンを聞いた事のない人は少ないだろうが、あの有名な序曲も改めて古楽とか自由度とか非凡とか、そういった目でもう一度聞いてみては如何だろう。
iTunes StoreでBizet : L'Arlésienne, Carmen Suites の文字列検索でアルバムが幾つか現われ視聴も出来る。

ryu-ie

「平和」 について

僕が知る限り、平和な時代が200年以上続いた二つの時代がある。
中国の漢王朝と、日本の江戸時代だ。

漢王朝は紀元前202年、一平民の劉邦(高祖)が四面楚歌の強者=項羽を打ち破り、始皇帝が崩壊したあとの中国をまとめた。
前漢から後漢まで、およそ400年もの間国内は比較的安定していて、いわゆる漢文化を花開かせるゆとりの時代となる。
江戸時代は言わずと知れた徳川支配の太平時代だ。
基本的にはこの時代も戦乱の世から比べれば争いは多くなく、豊かで文化水準も高く、識字率も世界一と言われた。

この平和な時代が訪れるために何をしたかと言うと、劉邦は共に戦った仲間を徹底的に粛清した。
王の座をひっくり返すほどの強いものがいなくなれば、国は平穏を保てると言う論理だ。
徳川は豊臣秀頼に加担する勢力をことごとく潰し、貿易を禁じ、参勤交代や船の帆の制限をして、藩の力を弱めるシステムを作った。

平和の影にとてつもない暴力と脅威が存在して成り立っていた事は確かだ。
レーニンもポルポトも「平和」の看板を掲げ、多くの民を粛清した。
日本はアジアの「平和」を守るため、朝鮮、中国を制圧し、泥沼化して行った。戦争をしない公約を掲げたルーズベルトは日本に先に手を出させ、「平和」を脅かす者に対しての攻撃は国民に「戦争」参加の賛同を得た。
イスラエルは徹底的な武力を誇示する事で、アラブには手の出せない平和な国をつくろうとしている。
戦後の日本は確かに平和だった。
徳川のようなアメリカから守られていれば軍備を持たなくて良い。

その日本が戦後経済復興をして高度成長出来たのは、朝鮮戦争とベトナム戦争のおかげだ。
戦争をしなくても、近くでで物資を提供している方が、戦争をしている国よりはるかに儲かる。
平和のための代償はとても大きい。
誰だって平和を願っている。
僕だって今の日本がいつまでも平和であってほしいと思っている。
問題はどういう方法で平和を得るかと言う事だ。 どんなに平和を願っていても、自分の家族を目の前で殺されたりしたら平穏ではいられない。
愛情があるほど戦争になる可能性が高い。
今の北朝鮮の拉致被害者の家族の方々もそんな気持ちだろう。
パレスチナはもっと酷い状況で戦争すらさせてもらえない。
だからテロやゲリラとなっていく。

これからの時代は平和を願うだけではなく、誰もが納得して和を結ぶ具体的な方法を考えないといけない。
この方法を考える事は難しい事だが、お金にならないだけで、ニュートリノの検出や「ソフトレーザーイオン化法」の発見よりは簡単なのかも知れない。
加えて言うなら、今の日本をどうするか等、これだけ大学まで行って勉強している優秀な者が多いなら、真面目にそういった事に頭を使ってみたらどうだろう。

これから世界の食糧事情や、環境問題で争いは絶えないかも知れない。
アメリカがいくら徳川のように一方的な軍事力を持とうとも、これだけの人種差別と、戦争の火種を持ち過ぎている国に平和のリーダーシップなどはとても務まらない。
平和集会で「イマジン」を歌う事も大事だが、世界の経済や生産力までを見据えた具体性のある平和プロジェクトを起ち上げる者はいないのか?

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「平等」について  

ホジャさんと言うトルコ系の聖人がいる。
ちょうどイソップや一休さんのような存在と言っていい。
ロバに乗っているホジャさんは僕のグループのリーダーの奥さんが大ファンで、こんな話をしてくれた。

ある時ホジャさんは子供達に「ここにあるお菓子を神様の分け方で配るのと、人間の分け方で配るのと、どっちがいい?」と聞いた。
「もちろん神様の分け方だよ」と子ども達。
するとホジャさんは、ある子供にはたくさん与え、他の子供には少なくと不平等に分け与えた。
少ししかもらえなかった子供は不満そうにホジャさんに「なんでこれが神様の分け方なんだよ。」と。
ホジャさんは答えた。「神様ってのは不公平なもんなんだよ。」

そもそも全ての生命が平等であるはずもない。
なんで僕はミジンコに生まれてきたの。
エビに生まれたらすぐに魚の胃袋の中だった。
家畜になんか生まれたくなかった。
とあるアフリカの国に生まれてきたら一日経たないうちに疫病で死んでしまった。
と、人間の目で観てみると命を持った者の98%までが自分の境遇に満足しているとは思えないのが生命世界だ。

我々は人間、まあ日本人として生まれたら、学校で教育は誰でも受けれると思っている。
誰もが少し勉強したくらいで大学へ行ける権利があると思っている。
誰もが働けば生きていけるように思っているだろう。

でも考えてみると、我々が生命として世に存在することだけで、それ自体は平等に誰でも成れる事ではなかった。
一回の性行為の中だけでも生命を持てる確率は3億分の1、良くて3億分の2か3。
他は生命に成れないのだ。
ものすごい強運。生命を得た我々は相当なエリートだと思う。

話はそれるが、こんな戦いをくぐり抜けて勝ち得た人間の生命を、たいした事に力を使わず流されて生きたり、夢や高みに挑戦もせず、言いたい事すらも言えず、何かに巻かれて年老いていくのは、生命に成り得なかったもの達にどう言った顔向けが出来るのであろう。
簡単に自殺するような奴は、そういった自分の境遇のイマジネーションに欠ける人間だと思う。

人間社会には強い国もあれば弱い国もある。
豊かな農産物のとれる国もあれば、凍えるような寒さの中で食うや食わずの国もある。
法的に平等の国もあれば、今だ奴隷まがいの身分制度のある国もある。
「同じ人間なんだから」「人間として生きる権利がある」 こんな言葉は人間だから通用する。
人間がそう在りたいという、最も正直な言葉だと思う。だから人間は素敵だ。

でも誰もが平等で、誰もが豊かで安定した生活を送り、誰でも頑張れば夢をかなえられるかと言うと、そんなわけはない。
得たい仕事も簡単には得られないし、好きな人と一緒になれるかというとその確率も多くはない。
頭の良い人もいれば悪い人もいる。顔の良い人も悪い人もいる。
お金持ちの家も在れば貧乏な家もある。
オリンピックに出れる身体能力の人もいれば、身体が不自由で一人で生活出来ない人もいる。
その人に向いたもの、その人の能力、その人にシックリしたものがある。
誰もが大リーガー選手になったり、人気タレントになったりしたら、世の中は何も生産しなくなってしまう。
社会には様々な役割があって、芝居に例えれば原作者もいれば脚本書きもあり、主役もいれば通行人もあり、照明係からメイク、小道具作りまで様々で、誰もが平等にスポットを浴びれる訳ではない。

今、学校では運動会の一等賞や試験の点数も何も公表せず、何事もただ平等に評価する傾向にあると言われている。
成績でその子の全ての評価材料にされる事は問題があるが、せめて教育の世界では頑張ったものに対してはそれこそ平等に正当な評価をしてやれないものか。
その上ではそれぞれの能力に合った勉強も出来るし、努力次第では自分の能力のもう少し上を目指す事も可能だし、形だけの平等を装うだけでは世の中に生きていく力が身に付かない。

坂本龍馬は「アメリカはその辺の掃除のおばちゃんだって大統領になれる可能性がある」という話を聞いて、日本の身分制度を変革したいと思ったと言う。
確かに自分は武士だからと言って町人を斬ってもお咎めなしではたまらない。
誰だってそんな国に居たくない。
そんな中では平等を叫びたい。
ただ、それは人権の尊重であって、なんでも分け隔てなく欲しいものが手に入る事とは違う。

インドは未だにカースト制度の中で、動物達を含めてうまくやっている。
上のものが食べないものを下のものが食べる。
人間が食べないものを犬が食べ、その残りをカラスが食べる。
ゴミも出る事が無く、少ない食料を最大限活かす方法だ。大国のインドがうまくやっていけるのは、すべてが平等でないことに他ならない。

様々な局面を例に取ったが、基本的には世の中は平等には出来ていないし、能力や容姿の個人差は受け入れなくてはならない事だ。
それでも人間には知恵がある。
不平等を受け入れる事によってそれを打破する方法を模索する。
工夫する事によって、遠い隔たりのある夢をも掴む事が可能だ。
不平等だから龍馬も生まれ、何か世の中が変化していく。

地球上に済む殆どの生き物は平等に酸素と、陽の光と(深海生物のような一部は除くが)、水を得る事が出来る。青い空は誰のものでもないという言葉があるが、ある意味で地球に暮らす事が出来るのは(出来なかったもの達から観れば不平等であるが)、生きている限りは平等に得れるという事だ。
全てはそこからもの事を考えて欲しい。僕は結構神様は違った面で、平等に考えている気がする。

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