映画でもアニメでも、スリルのある物語りはよく何か非常な事件が起こり、そこに巻き込まれて危うく死にそうになったりする。
ヒロインは大概、精神障害になりそうなひどい目にばかり遭う。
例えばアニメの「名探偵コナン」のヒロインの蘭はいったい何度死にそうな目に遭っているのだろうか。
憧れの新一には逢う事も出来ず、死にそうな目にばかり遭っている、なんと悲しい人生だろう。

死を賭けたゲームのような世界の中に舞い込み、自分だけでなく大切な人の命を奪われそうな極限状態になり、それを何とか危機一髪で乗り切って安堵感を楽しむ。
一般的に感動するドラマの多くは、そうした単純な作りになっている。

つまりは平和が良いと言っておきながら、人間はなにか平和ではない要因が起こり、それを回避するところに生き甲斐を感じる部分があるのではないか?
映画などの娯楽は現実には嫌だけれど、代行で命を賭けたもう一人の自分が戦ってヒロインを守り、それを乗り切った中での平穏を味わっている。
事件が起こらないと探偵や警察の活躍する場面はないわけだが、この辺りの感覚をもうワンステップアップしないと、現世の修羅の世界から解脱出来ない気がする。

アンデルセンやグリムの時代の童話は、ある意味とても残酷だ。
日本では伊勢物語の鬼に飲み込まれる女や、宮沢賢治の童話でもそうだが、ある意味で死は無作為にやって来る。
それはあたかも野ネズミが狐に追われて食べられたり、虫たちが車の窓に当たって死んだりする、ごく日常の、お茶を飲むような次元と同じように死がやって来る。
そこに読むものは悲しさだけでない、世の流れ、摂理不条理、もののあわれなど様々な感覚を味わう。
映画「男はつらいよ」の寅さんは、映画になる前のテレビ版の時代には最終回でハブに噛まれて死んでしまう。
それの抗議が映画化になったらしいが、男の一代記ならどこかで終りが来るだろう。
漱石の「猫」でも酒樽に落ちて溺れ死ぬ。

2

マンガを読み始めた小学5年生くらいの頃、たぶん少年マガジンに載った石川球太画、戸川幸夫原作の「牙王」は、人間も動物も自然の中で沢山死んでいった。
ヒロインの早苗が熊に食べられて死んだ時は唖然とした。
既にディズニー映画のハッピーエンドに慣らされていた僕は、一年くらい立ち直れなかった。

それに比べると「力石」の死は若干の作為を感じてしまう。
なにも挑戦者のためになにもそこまで階級を落として戦う事はなかったんじゃないか。
そういう「力石」の気分がリアルではない。
でも彼の死があることで「あしたのジョー」は忘れられない名作になってしまっている。