Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2008/11

経済再建、雇用問題、食料自給と管理の危機、振込み詐欺、通り魔事件、これらの事を考えるとあるひとつの事例が頭をよぎった。
それは 「核家族」 ということに集約される。
もちろん、それぞれの家庭は様々な事情の中である形をとっているから、それ自体を批判するつもりはない。
ただ、本当に全てが危機的な状況になった時には、この問題をクリアする事で殆どの事は解決がつく事かも知れないと、素人ながら思うのである。

例えば片方に雇用の危機という問題があり、働きたいけれど正社員になれず、中には夫婦で子供が出来ても2人で10万ちょっとの収入しかなく、子供が産まれても施設に預けるしかなく、こんな生活はもう嫌だと鬱になるような人たちが沢山居る。
片方に農家の問題があり、土地も仕事も沢山あるのに、子供は皆都会にでて行ってしまう。
農家の人は年老いて働けなくなり、土地は痩せて作物も作れなくなる。

この状況だけ単純に考えると、田舎が農家であれば帰ってそのまま後を継げば、雇用問題と食料自給と管理の危機はかなり収まるのではないか。
日本はなぜか大学に入る頃親元を一度離れることを考える。親の後を継ぐなんてかなり特殊な考えなのだろうか?
会社員になる事はもっと堅実な道なのか?
「親の側で働いて、親が働けなくなったら楽をさせてやろう。嫁さんが来たら家族がみんなで住めるように改築しよう」
こんな考え方は海外の農家の青年の多くはみんな思っている。
日本はどこかで自由と個人主義を履き違えて、親の仕事を尊敬する事もせず、「うざい」とか言って飛び出して孤独の空間を求める。
たいして友達作りも上手いわけではないのに、人から認めてもらいたくてしょうがない。
叶わないと鬱になったり、目立つための事件を起こす輩も出てくる。
親も子どもと離れていると、稀に電話かけてくる喜びに我を忘れて、赤の他人への支払いを被ってしまう。

つまり、もう一度親たちと正常なコミュニケーションをとり、子供である事に甘え、そこで仕事や仕事に纏る事を展開して、農作物なら多少苦労が多くても良いものを作れば売れるし、政府がそこを働きやすいように多少支援すれば他の国に頼らない確固たる流通が出来るかも知れない。
失業率が少なければおのずと経済効果は現われるだろうし、派遣だって手薄になれば給金は上がる。
物凄い素人考えだとは解っている。多くの派遣の人の事情も、農家の田舎があるとは限らないし、それぞれの立場が違うだろう。

でも、このくらいの覚悟がなきゃ、経済なんてどういうスタイルをとっても良くならないと思うけど・・・。

ikimonocd

個人的な新しいCDが出来ました。
陶芸家の原田隆峰さん作ったが「おーい、一寸一寸!」と始まる、様々ないきものたちの気持ちになった訴えの12篇の詩に、僕が曲を作り、古楽器や原田作の陶器楽器などで伴奏を付け、上野律子、竹永久男が歌う、あまり今までに無い形の歌曲集です。

----原田隆峰の詩による----「いきものたちの哀歌」定価1500円 以下のページから視聴も出来ます。気に入ったら買ってください。 
MAGI Record

結局、歌以外の多くの部分は自分一人で演奏して録音して、仮歌を録音して、歌手の歌を録音して、ミックスしてCDに焼き上げてプレスに出して、今回はデザインは友人の藤島さんにお願いしたが、写真を撮ってで藤島さんとファイルのやり取りをし、版下をillustratorで提出するまで、多くの部分が一人の作業となった。
「なんでそんなにいろんな事が出来るんですか?」と聞かれる事がある。
前回作ったCD「Chirping of the last.「囀り(さえずり)」は詩とブックデザインまでほとんどを手掛けた。
今思うと青臭い感じもするが、あくまで自分一人のカラーで作られている。
この事は実は商品をつくる上ではあまり良くない事らしい。客観性が持てないからだ。
いろんな人間が関わって色んな意見が加わって、誰が見ても楽しめる作品が出来るのが現代流だ。
映画だって演劇だって、一人の力で出来るわけではない。
所謂、独りよがりになりやすい。 だが、一方には一部のヨーロッパ映画や、独り芝居、マイムや人形劇のように、話から演者、音楽から効果まで、ほとんどのことを一人でやってしまう。
最近では独り人形劇のソフィー・クロッグ(デンマーク)なんかは凄まじく、僕なんか足下に及ばない。

なぜ独りでやるかはきっと単純な理由で、僕なんかはどんな上手い人のミックスダウンよりも、自分の拙いミックスの方が納得するからである。
お金の問題ではない。油絵だったら自分一人で完結出来る事が、音楽ではしにくい。
それが今は出来る環境にある。それだけの事かも知れない。
日本では特に「専門家」「プロフェッショナル」が持て囃され、演奏一筋とか、作曲一筋とか、それ以外の分野に立ち入らず脇目もふらず、ただ一心に求める世界を打ちだす事が美徳とされている。

もちろんそういった仕事の内容は素晴しいわけだ。
それは描きたいものを頭の中に現われた「何か」を、設計したり作曲したりするように「構築」して、表現や演奏などのような表現手段となる「媒体」を通して、観客となる「相手」に伝えるわけだ。
プロフェッショナルは多くはその「媒体」の部分が特出している事になり、「何か」から「構築」までのものを築くには技術だけではとても追いつけないほどの広大な世界観を持ってないと、「相手」に届いて納得させられるようなものは出来ないと思う。

「世間はどうなってもええから仕事だけやっておればええのに、性分なのかもしれんが近くに住んでいる生きものの事がやたらと気になる。」
そう言う、今回このCDの詩を作った陶芸家の原田隆峰さんは、陶器を作りながら詩も書けば小説も書く。
そしてその生きものたちの気持ちになって書いた言葉が今回の詩だ。
詩を書き陶器を作り動物と接する事でどんな「媒体」手段をとろうともそこに深みが出てくる。

色んな事をする人間は日本では平賀源内が有名だが、西欧ルネサンス時代はダ・ヴィンチを筆頭にそんなマルチ人間が沢山居た。
数学や科学、文学、音楽や演劇が同じ次元の中にあり、つながっているのだ。

「なんでそんなにいろんな事が ・・・」と言われるほど僕なんか凄くはない。
ただ自分の出せる可能な限りの音色と自分で得た音楽手法と、その構築過程で得た「知恵」を持って、どうすればもっと人間が人間らしい生活ができるのかを考え、表していきたい。
「知恵」とは、「構築」する過程で必ず行う「視点の転換」のことである。
これによって今まで人に見えていない部分が拡大されて見える。
この知恵の中に人を救える材料が必ず入っていると思っている。
だからこそ僕は、あえて下手だろうがなんだろうが、「音楽だけやっておればええのに・・」文章を書いていく事が必要となる。

↑このページのトップヘ