音楽はどこからやってくるか、これは人がどこからやって来るかに等しい。
人はものを作る。でも本当にそれは自分の中だけで生まれ、何の影響を受けずに独立しているものだろうか?
ハーモニーを付けたり、音色を整えたりするのは、多くは技術の積み重ねで出来る。
でも、メロディはどうか?これは技術の範疇では説明の付かない、どこからやって来るのか科学的にも解明出来ない部分だろう。

考えてみると、音楽を創ったり、演奏したりする事は、なにか霊媒師の作業のようなものの様な気がする。
この年になって感じるわけではないが、音楽を創っている時の背後には明らかに何か居る。
背景にある何か形のない存在がを、自分の身体に憑依して形にしている。
だからもし自分の作品が素晴しいのであれば、その何かの存在であり、自分では何かをしている感覚はない。
ただ、この霊媒師の作業は技術の要る作業となる。 ある意味で原石のようなものに磨きをかけるような作業であり、支離滅裂に並べられた断片から流れを掴んで、人が解りやすい状態に形作る作業でもある。
そう、曲を創る作業は映画や雑誌を編集している感覚に近いのかも知れない。

即興演奏をする時は、まさにその背後の何かに演奏させられているとしか思えない場面がある。
よく二台のプサルテリー(中世の箱琴)で会話をするように旋法を使った打ち合せのない即興演奏するが、調子が良ければ気の流れのようなものが見えてきて、自分の作為の世界では考えられないような美しさと自然観と独自性をもった時間の流れを作ることがある(※)。
psa22
無宗教の自分が「神が宿る」としか説明の付かないことが多々ある。
空海の真言も宇宙の音を聴く事にあると思う。
僕の恩師、溝上日出夫先生も「ちょっと音を拾いに言ってくるよ」と散歩に出るという。 

ジョン・ケージが「作曲は、自分も聴衆の一人として楽しみたい」という内容の事を言っている。
自分の中だけでこね繰り回しただけの曲はつまらないと考えるのが自然なのだろう。
何が聴こえて来るか自分でも予測がつかない、だから音楽は面白いと思う。


※二台のプサルテリーの即興演奏はCDではカテリーナ古楽合奏団の「ドゥクチア」の「ショーム吹きの踊り」の前半、ロバの音楽座の「ロバの音さがし」の「雨のルーマニア」、一台のソロの即興では上野哲生の「いきものたちの哀歌」の「賛歌-木々は語る」などがある。