少し前の話だが、映画「レッドクリフ」を観た。
三国志好きの僕としてはこれを見逃がす訳にはいかない。
確かにお金をかけてすばらしいCG、すばらしい俳優たちを並べ、迫力はあった。でも、そこまでという印象だった。
スペクタクルなら「ベンハー」に及ばない。
少なくとも僕の好きな、ある三国志の漫画にはとても及ぶものではなかった。
その漫画は王欣太の「蒼天航路」。
李學仁という人の原案で始まったこの漫画は、深夜にアニメ化されているが、こういうものの宿命で、原作の描き方・迫力には到底追いつけない。
観るならまず、コミックを観てほしい。36巻まである。
まず、他の三国志と大きく違うところは魏の「曹操」を主人公としているところ。
多くのものは「劉備玄徳」や「諸葛亮孔明」の「義」や「忠」「徳」が前面に出てくるのだが、何とも儒教的なムードが強く、結局その因果で何万もの民たちが死んでいく運命にあると思うと、常に重い感じが残ってしまうところがあった。
ところがここに出てくる曹操はより「老荘」的であり、才能のある人間は身分が低かろうとも悪人であろうとも取り上げ、逆に「儒」の上にふんぞり返る習慣・家柄に固執するものを徹底的に弾圧を加える。
固定概念に縛られることのない自由な発想の持ち主として描かれ、その行動が観ている者をも飽きさせない。

李は中国人だが、王は日本人だという。
最初は中国人の漫画と思っていて、さすが層の厚い中国は日本の漫画をも超えようとしていると思ったが、それは思い違いであった。
「呂布」の描き方も素晴らしい。雷鳴と共に吠える呂布の恐ろしい形相が稲妻に照らされ、「呂府が出たぁぁ・・」と一気に逃げ惑う。(コミック8巻)
まさに音楽が聞こえてきそうな迫力がある。
こんな映像的な迫力は幾らでもあるのだが、単に敵の裏をかいて勝った負けたの世界ではない、戦とは、武とは、民とは、様々な問いかけがそこにある。
物語の終わりの方(コミック35巻)で、関羽と徐晃の迫力ある一騎打ちがあるのだが、決着は着かない。
関羽が思わず
「誇り高き敵将と戦うとき、味方以上の親愛を感じることがある。・・・憎しみも恨みもない・・・なにゆえわれらは戦うのであろうな・・・」と。
徐晃は
「なんと無意味で高邁な問いか・・・」
と返すのだが、戦いが終わり、一人関羽を想いたたずむ徐晃の敗北感と清々しさ、そして咆哮。
武人の心とは斯くものか。
こんな戦を描いた漫画は見たことがない。
画の力だけでなく、台詞をまるで史記の原文がそのまま書かれているが如く、言葉を吟味している。
一番好きなシーンは許都の宮中に学術や芸術に富んだ才のものが集められ宴が開かれるシーンだ。(コミック18巻)
そこに孔子の子孫「孔融」が見事な詩を吟じる。
誰もがこれ以上の詩はないと感嘆しておるときに、曹操の息子でまだ青年の「曹植」がいきなり即興で恋の激情を詩にし、孔融を遙かに凌駕する。儒の孔融はそれを諫めるがそれを巡って知識人の大論戦となる。
そこに曹操が鼓を打って現れ、
「おまえたちの論議もまた詩なり」
と言い、
「文人たちよ!この曹操が囃してやろう。思うがままに詩うがよいぞ」
と。
曹植は
「詩歌で乱世を終わらせることも可能だ。」
と言い、孔融は「天下の心は荒廃しておるが故に儒が必要だ。」と返す。
ここで曹操は
「楽隊は礼楽ばかり奏でさせられ、画工は孔子の肖像ばかり描かされてきた。・・・いったいどれほどの才が儒という権威に隷属されてきたことか。・・・楽隊よ、もう儒が求めるままに奏でずとも良いぞ、それぞれが天下人のように音を生み出せ」
そして宴は盛り上がり、帝まで踊りに加わり、曹操はまた戦の虫が疼いてくる。
中国文学の誕生とも言うべき建安七士の出会いを、こういう描き方で表せることは漫画でしかできない。
いや、未だかつて小説や映画で三国志のこのような詩や芸術の世界の核心を突いた作品は有っただろうか?
「孔明」は一般に描かれる人格者とは全く違った像で生き生きと描かれている。
これは実際に観て楽しんでいただきたい。
凄いのは、魏諷のクーデターは魏諷が赤子の頃から仕組まれた孔明の策とする所は、アーサー・C・クラーク並のSFのような発想とスケールの大きさを彷彿させる。
日本の漫画はここまで来たかと思わせる、漫画の中の逸品だと思っている。もう何度も何度も読み返しているのだが、まだまだ幾らでも驚きや発見が尽きない。
三国志好きの僕としてはこれを見逃がす訳にはいかない。
確かにお金をかけてすばらしいCG、すばらしい俳優たちを並べ、迫力はあった。でも、そこまでという印象だった。
スペクタクルなら「ベンハー」に及ばない。
少なくとも僕の好きな、ある三国志の漫画にはとても及ぶものではなかった。
その漫画は王欣太の「蒼天航路」。
李學仁という人の原案で始まったこの漫画は、深夜にアニメ化されているが、こういうものの宿命で、原作の描き方・迫力には到底追いつけない。
観るならまず、コミックを観てほしい。36巻まである。
まず、他の三国志と大きく違うところは魏の「曹操」を主人公としているところ。
多くのものは「劉備玄徳」や「諸葛亮孔明」の「義」や「忠」「徳」が前面に出てくるのだが、何とも儒教的なムードが強く、結局その因果で何万もの民たちが死んでいく運命にあると思うと、常に重い感じが残ってしまうところがあった。
ところがここに出てくる曹操はより「老荘」的であり、才能のある人間は身分が低かろうとも悪人であろうとも取り上げ、逆に「儒」の上にふんぞり返る習慣・家柄に固執するものを徹底的に弾圧を加える。
固定概念に縛られることのない自由な発想の持ち主として描かれ、その行動が観ている者をも飽きさせない。

李は中国人だが、王は日本人だという。
最初は中国人の漫画と思っていて、さすが層の厚い中国は日本の漫画をも超えようとしていると思ったが、それは思い違いであった。
「呂布」の描き方も素晴らしい。雷鳴と共に吠える呂布の恐ろしい形相が稲妻に照らされ、「呂府が出たぁぁ・・」と一気に逃げ惑う。(コミック8巻)
まさに音楽が聞こえてきそうな迫力がある。
こんな映像的な迫力は幾らでもあるのだが、単に敵の裏をかいて勝った負けたの世界ではない、戦とは、武とは、民とは、様々な問いかけがそこにある。
物語の終わりの方(コミック35巻)で、関羽と徐晃の迫力ある一騎打ちがあるのだが、決着は着かない。
関羽が思わず
「誇り高き敵将と戦うとき、味方以上の親愛を感じることがある。・・・憎しみも恨みもない・・・なにゆえわれらは戦うのであろうな・・・」と。
徐晃は
「なんと無意味で高邁な問いか・・・」
と返すのだが、戦いが終わり、一人関羽を想いたたずむ徐晃の敗北感と清々しさ、そして咆哮。
武人の心とは斯くものか。
こんな戦を描いた漫画は見たことがない。
画の力だけでなく、台詞をまるで史記の原文がそのまま書かれているが如く、言葉を吟味している。
一番好きなシーンは許都の宮中に学術や芸術に富んだ才のものが集められ宴が開かれるシーンだ。(コミック18巻)
そこに孔子の子孫「孔融」が見事な詩を吟じる。
誰もがこれ以上の詩はないと感嘆しておるときに、曹操の息子でまだ青年の「曹植」がいきなり即興で恋の激情を詩にし、孔融を遙かに凌駕する。儒の孔融はそれを諫めるがそれを巡って知識人の大論戦となる。
そこに曹操が鼓を打って現れ、
「おまえたちの論議もまた詩なり」
と言い、
「文人たちよ!この曹操が囃してやろう。思うがままに詩うがよいぞ」
と。
曹植は
「詩歌で乱世を終わらせることも可能だ。」
と言い、孔融は「天下の心は荒廃しておるが故に儒が必要だ。」と返す。
ここで曹操は
「楽隊は礼楽ばかり奏でさせられ、画工は孔子の肖像ばかり描かされてきた。・・・いったいどれほどの才が儒という権威に隷属されてきたことか。・・・楽隊よ、もう儒が求めるままに奏でずとも良いぞ、それぞれが天下人のように音を生み出せ」
そして宴は盛り上がり、帝まで踊りに加わり、曹操はまた戦の虫が疼いてくる。
中国文学の誕生とも言うべき建安七士の出会いを、こういう描き方で表せることは漫画でしかできない。
いや、未だかつて小説や映画で三国志のこのような詩や芸術の世界の核心を突いた作品は有っただろうか?
「孔明」は一般に描かれる人格者とは全く違った像で生き生きと描かれている。
これは実際に観て楽しんでいただきたい。
凄いのは、魏諷のクーデターは魏諷が赤子の頃から仕組まれた孔明の策とする所は、アーサー・C・クラーク並のSFのような発想とスケールの大きさを彷彿させる。
日本の漫画はここまで来たかと思わせる、漫画の中の逸品だと思っている。もう何度も何度も読み返しているのだが、まだまだ幾らでも驚きや発見が尽きない。