Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2009/07

少し前の話だが、映画「レッドクリフ」を観た。
三国志好きの僕としてはこれを見逃がす訳にはいかない。
確かにお金をかけてすばらしいCG、すばらしい俳優たちを並べ、迫力はあった。でも、そこまでという印象だった。
スペクタクルなら「ベンハー」に及ばない。
少なくとも僕の好きな、ある三国志の漫画にはとても及ぶものではなかった。

その漫画は王欣太の「蒼天航路」。
李學仁という人の原案で始まったこの漫画は、深夜にアニメ化されているが、こういうものの宿命で、原作の描き方・迫力には到底追いつけない。
観るならまず、コミックを観てほしい。36巻まである。
まず、他の三国志と大きく違うところは魏の「曹操」を主人公としているところ。
多くのものは「劉備玄徳」や「諸葛亮孔明」の「義」や「忠」「徳」が前面に出てくるのだが、何とも儒教的なムードが強く、結局その因果で何万もの民たちが死んでいく運命にあると思うと、常に重い感じが残ってしまうところがあった。
ところがここに出てくる曹操はより「老荘」的であり、才能のある人間は身分が低かろうとも悪人であろうとも取り上げ、逆に「儒」の上にふんぞり返る習慣・家柄に固執するものを徹底的に弾圧を加える。
固定概念に縛られることのない自由な発想の持ち主として描かれ、その行動が観ている者をも飽きさせない。
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李は中国人だが、王は日本人だという。
最初は中国人の漫画と思っていて、さすが層の厚い中国は日本の漫画をも超えようとしていると思ったが、それは思い違いであった。
「呂布」の描き方も素晴らしい。雷鳴と共に吠える呂布の恐ろしい形相が稲妻に照らされ、「呂府が出たぁぁ・・」と一気に逃げ惑う。(コミック8巻)
まさに音楽が聞こえてきそうな迫力がある。
こんな映像的な迫力は幾らでもあるのだが、単に敵の裏をかいて勝った負けたの世界ではない、戦とは、武とは、民とは、様々な問いかけがそこにある。

物語の終わりの方(コミック35巻)で、関羽と徐晃の迫力ある一騎打ちがあるのだが、決着は着かない。
関羽が思わず
「誇り高き敵将と戦うとき、味方以上の親愛を感じることがある。・・・憎しみも恨みもない・・・なにゆえわれらは戦うのであろうな・・・」と。
徐晃は
「なんと無意味で高邁な問いか・・・」
と返すのだが、戦いが終わり、一人関羽を想いたたずむ徐晃の敗北感と清々しさ、そして咆哮。
武人の心とは斯くものか。
こんな戦を描いた漫画は見たことがない。
画の力だけでなく、台詞をまるで史記の原文がそのまま書かれているが如く、言葉を吟味している。

一番好きなシーンは許都の宮中に学術や芸術に富んだ才のものが集められ宴が開かれるシーンだ。(コミック18巻)
そこに孔子の子孫「孔融」が見事な詩を吟じる。
誰もがこれ以上の詩はないと感嘆しておるときに、曹操の息子でまだ青年の「曹植」がいきなり即興で恋の激情を詩にし、孔融を遙かに凌駕する。儒の孔融はそれを諫めるがそれを巡って知識人の大論戦となる。
そこに曹操が鼓を打って現れ、
「おまえたちの論議もまた詩なり」
と言い、
「文人たちよ!この曹操が囃してやろう。思うがままに詩うがよいぞ」
と。
曹植は
「詩歌で乱世を終わらせることも可能だ。」
と言い、孔融は「天下の心は荒廃しておるが故に儒が必要だ。」と返す。
ここで曹操は
「楽隊は礼楽ばかり奏でさせられ、画工は孔子の肖像ばかり描かされてきた。・・・いったいどれほどの才が儒という権威に隷属されてきたことか。・・・楽隊よ、もう儒が求めるままに奏でずとも良いぞ、それぞれが天下人のように音を生み出せ」

そして宴は盛り上がり、帝まで踊りに加わり、曹操はまた戦の虫が疼いてくる。
中国文学の誕生とも言うべき建安七士の出会いを、こういう描き方で表せることは漫画でしかできない。
いや、未だかつて小説や映画で三国志のこのような詩や芸術の世界の核心を突いた作品は有っただろうか?

「孔明」は一般に描かれる人格者とは全く違った像で生き生きと描かれている。
これは実際に観て楽しんでいただきたい。
凄いのは、魏諷のクーデターは魏諷が赤子の頃から仕組まれた孔明の策とする所は、アーサー・C・クラーク並のSFのような発想とスケールの大きさを彷彿させる。

日本の漫画はここまで来たかと思わせる、漫画の中の逸品だと思っている。もう何度も何度も読み返しているのだが、まだまだ幾らでも驚きや発見が尽きない。

悲しいくらいに 人は人としての体をなさずして死んでゆく
最初からそれが人の軌道なのか?
その無限の可能性の中の微塵も掴めずに
生まれた時は誰もがメシアのよう
一本の光がいずれ宇宙全てを照らすかのように
ただ多くは巨大な川の流れの中に飲み込まれ
どこへ消えたか解らなくなってしまう

肉体的な野望を果たすには
このちいさな星の中ではせま過ぎる
ぶつからないためにみんな小さく生きる
心まで、小さく小さく生きようとする
音を止め、僅かな光の中で目を凝らすと
今まで見えていなかった覗き窓が目の前に現われる
そこからは「離見の見」の如く、流れの中の自分が見える
なんと微小な存在 生まれてくるまでは少なくとも3億の中の優勝者 努力したかは解らない。

だたそこに至る意志は並のものではなかった
生まれてからもそのエネルギーがあるなら
ありとあらゆる手だてを考え、今を生き抜こうとするだろう
人の能力の差は人の身長の差ほどしかない
元々の走る力は100メートル金メダリストと倍もかけ離れていない
誰もがアインシュタインの倍も考えれば、及ばずともそれに近い所へ行ける
仮に五体に欠落部分があっても、それ以外に出てくる芽の力は計り知れない
多くは毎日毎日、その日を生きるのが大変過ぎて
食住を得る事だけに固執して生きてしまう事が多い
多量の食料が捨てられている訳だから、そんなに大変な時代ではないのに

毎日多量の餓死者を産む国もあるというのに
もともと何もない所に運良く手に入れた命だから
必死に生きた結果、どんな運命が待ち受けていようと恐れる事はない
人としての思考や肉体を得れたのだから
それを隅々まで活用できない事がもったいない、それが恐ろしい

知らない事がまだまだ無限に有る 毎日毎日同じ道ばかり歩いていては発見が少ない
まずは音の出るものを消し、静寂の中に身を置き 自分の覗き窓が現われるのを待ってみよう
そんな環境から新たな進化した自分が生まれてくるかも知れない
名も無き小さな花で終わってしまって構わないのだが

人が他の多くの生命の犠牲の上に成り立っている以上、 夢や希望に満ちあふれ、次の生命のために光り輝いていたい

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