今、腎臓結石で入院している。
昔なら手術で悪い方の腎臓を一つ取って、残り一つで生き延びる。
二つ目が悪くなればそれで終わりだ。
今は素晴らしい治療法がいくつもあり、それを選択できる。
詳しく腎臓結石で検索すれば幾らでも出てくるのでここでは書かない。
医療の進歩はすさまじいもので、僕が100年早く生まれていたらとっくの昔に死んでいる。
虫歯でさえ、激しい苦痛を伴った死に至る時代もあった。
病気をなくす方法はこれだけ様々な方法が生まれていながら、戦争をなくす方法はいっこうに増えない。
これは病気をなくす方がお金になることが多いが、戦争はなくすより増やす方がお金になると思っている人が多いからであるに違いない。
まあ、こんな単純な論理で片はつかないが、本当に平和を求めるなら、戦争は確実に起こるものだと思っておかなければならない。
それは病気に必ずなるという事と同じで、平和を願ったり、訴えたりするだけでは戦争はなくならない。
原因を突き止め、それは再発させない方法を探るべきだろう。
僕の結論から言うと、戦争の原因は個人主義からくるものだと思っている。
もちろん近代戦争の多くは、国家の利益を個人の利益より優先する全体主義が戦争を起こしていたことは間違いない。
その全体主義も広義の意味では個人主義の集合体で、「相手のことを考えない」意味では同じなのだ。
基本的には「相手の嫌がることをしな」ければ争いは起こらない。
当然相手も何が「嫌がる」事なのかを示さねば解らない。
お互い違うと言うことを認め合った上で相手を理解しなければならない。
時にはお節介も必要だ。
が、例えば相手のことを理解しないで「君は豚肉美食教に入会すべきだ。」とイスラムの人に強要したら、間違いなく戦争になるだろう。
「平和反戦教」みたいなものを立ち上げ、それに加わらない人を「悪だ」とか「かわいそうな人」とか言う時点で、相手を理解しないことを宣言していることになる。
これは国家が粛正するのと大して変わりはない。
平和の国日本だって軍需産業に関わざるを得ない事情の人もたくさんいる。
今の日本の平和と繁栄だってご近所(朝鮮半島やベトナム)の争いごとに支援していた面も多分にあるはずだ。
そんなことを今更言ってもしょうがない。
これからをどうしていくか考えなければならない。
古くからの風習や伝統を新にすることも良い。
ただ、その風習や伝統を大事にする人たちがいると言うことをわきまえなければならない。
争うのならその前に、お互いの事を理解することに労力を費やしても、争う労力よりは遙かに軽かろう。
例えば姫路城のような世界遺産に落書きが多いと聞くが、丹精込めて大切に大切に管理し保存してきた者たちの心を見事に踏みにじっている。
管理者たちは自分の家族同様に大切にしてきたものだろう。
それを観に来る多くの人々も劣らずに同様だろう。
書いた方はちょっとした悪ふざけかもしれないが、後からそれを見た人がなんと思うか、それを想像できないのだろう。
出来るのにわざと書くのであれば、それは相当な好戦家だ。
僕なら、自分の家族同然のものが辱めを受けるのなら、その場で殺し合いの喧嘩になると思う。
形ばかり戦争は嫌だと言いながら、権利ばかり主張して学校に文句ばかり言っている親や、親の愛情や意見も聞かず「るせえんだよォ」と好き勝手に生きる子ども。
祖母たちと接する機会の少ない孫。
別に国のためとか、親のためとか、押しつけるような考え方でなくて良いから、年寄りだろうが、罪人だろうが、赤ちゃんだろうが、人食い人種だろうが、宇宙人だろうが、嫌いなやつだろうが、相手の嫌がることをやってはいけない。
かといって付き合わなければ社会は成り立たないから、相手を受け入れなければならない。
無視することはやはり遠回りでも争いになる。
それは全体主義でもなければ個人主義でもない。
適切な言葉がないが、とりあえず人類愛とも言うべきことなのだろう。
いや、動物だって優しく接すれば咬まないで交流できる(空腹時は保証できないが)。
そのためには表現することが重要であり、さらに見聞きし想像する力が重要となる。
芸術の真価はそこにあるのではないか?
優れた表現者は誰に何をどんな風に表すかが優れ、同時にその誰かが何を考え何が心地よく何が嫌いか洞察し、イメージする力に長けている。
やってみてこれが嫌なのかと解ることもあるが、ある程度イメージ出来ないと真の優れた表現者ではない。
ヒトラーは優れた絵を描いていたし、マルキ・ド・サドも優れた芸術家であろうが、他者を理解していたかどうか、人の痛みを理解したかどうか・・・。
そのように他を閉ざして威圧し、独善の世界観のみで描く芸術家もあるが、多くは人とは何だろう?
人の心とは何だろう?生命とは?美とは何だろう?と様々な問いかけの中から産まれてくるものだろう。
そんな優れた芸術家の話ではなく、三軒隣の近所の叔父さんや駄菓子屋のお婆ちゃん、近くの農家のお爺さん、飲み屋の女将、ギターを抱えた兄ちゃん、車椅子で散歩する少女、ランドセルが重い一年生の娘。
そんなどこに出もある社会が声をかけ、お互い何が嫌かを知って普通に付き合える。
ある程度言いたいことも腹に据えずちゃんと言い、多少の喧嘩はしても傷つけ合わない。
それはそれぞれの言葉での表現者であり、お互いの気持ちの想像が出来る理解者である。
少し意識を変えるだけで、誰もがそういう芸術家になれるはずだ。
そんなコミュニケーションの関係が出来て、初めて「平和」という言葉を口に出来るのではないか?
人は決して一人で生きているのではないと身をもって悟ったとき、恥を知り、誇りを知り、戦わない状況を生めるのではないか。そうであればどんな表現の形であれ、優れたアーティストに変わりなく、戦わない人たちと言えるのではないか。
北朝鮮と対話するもしないも、我々が個人主義の中にいる限り、いつまでも平行線を辿るしかないだろう。
「解らない!」「許せない!」と皆が思えば、やはり行き着く所、戦争しかないのだ。
昔なら手術で悪い方の腎臓を一つ取って、残り一つで生き延びる。
二つ目が悪くなればそれで終わりだ。
今は素晴らしい治療法がいくつもあり、それを選択できる。
詳しく腎臓結石で検索すれば幾らでも出てくるのでここでは書かない。
医療の進歩はすさまじいもので、僕が100年早く生まれていたらとっくの昔に死んでいる。
虫歯でさえ、激しい苦痛を伴った死に至る時代もあった。
病気をなくす方法はこれだけ様々な方法が生まれていながら、戦争をなくす方法はいっこうに増えない。
これは病気をなくす方がお金になることが多いが、戦争はなくすより増やす方がお金になると思っている人が多いからであるに違いない。
まあ、こんな単純な論理で片はつかないが、本当に平和を求めるなら、戦争は確実に起こるものだと思っておかなければならない。
それは病気に必ずなるという事と同じで、平和を願ったり、訴えたりするだけでは戦争はなくならない。
原因を突き止め、それは再発させない方法を探るべきだろう。
僕の結論から言うと、戦争の原因は個人主義からくるものだと思っている。
もちろん近代戦争の多くは、国家の利益を個人の利益より優先する全体主義が戦争を起こしていたことは間違いない。
その全体主義も広義の意味では個人主義の集合体で、「相手のことを考えない」意味では同じなのだ。
基本的には「相手の嫌がることをしな」ければ争いは起こらない。
当然相手も何が「嫌がる」事なのかを示さねば解らない。
お互い違うと言うことを認め合った上で相手を理解しなければならない。
時にはお節介も必要だ。
が、例えば相手のことを理解しないで「君は豚肉美食教に入会すべきだ。」とイスラムの人に強要したら、間違いなく戦争になるだろう。
「平和反戦教」みたいなものを立ち上げ、それに加わらない人を「悪だ」とか「かわいそうな人」とか言う時点で、相手を理解しないことを宣言していることになる。
これは国家が粛正するのと大して変わりはない。
平和の国日本だって軍需産業に関わざるを得ない事情の人もたくさんいる。
今の日本の平和と繁栄だってご近所(朝鮮半島やベトナム)の争いごとに支援していた面も多分にあるはずだ。
そんなことを今更言ってもしょうがない。
これからをどうしていくか考えなければならない。
古くからの風習や伝統を新にすることも良い。
ただ、その風習や伝統を大事にする人たちがいると言うことをわきまえなければならない。
争うのならその前に、お互いの事を理解することに労力を費やしても、争う労力よりは遙かに軽かろう。
例えば姫路城のような世界遺産に落書きが多いと聞くが、丹精込めて大切に大切に管理し保存してきた者たちの心を見事に踏みにじっている。
管理者たちは自分の家族同様に大切にしてきたものだろう。
それを観に来る多くの人々も劣らずに同様だろう。
書いた方はちょっとした悪ふざけかもしれないが、後からそれを見た人がなんと思うか、それを想像できないのだろう。
出来るのにわざと書くのであれば、それは相当な好戦家だ。
僕なら、自分の家族同然のものが辱めを受けるのなら、その場で殺し合いの喧嘩になると思う。
形ばかり戦争は嫌だと言いながら、権利ばかり主張して学校に文句ばかり言っている親や、親の愛情や意見も聞かず「るせえんだよォ」と好き勝手に生きる子ども。
祖母たちと接する機会の少ない孫。
別に国のためとか、親のためとか、押しつけるような考え方でなくて良いから、年寄りだろうが、罪人だろうが、赤ちゃんだろうが、人食い人種だろうが、宇宙人だろうが、嫌いなやつだろうが、相手の嫌がることをやってはいけない。
かといって付き合わなければ社会は成り立たないから、相手を受け入れなければならない。
無視することはやはり遠回りでも争いになる。
それは全体主義でもなければ個人主義でもない。
適切な言葉がないが、とりあえず人類愛とも言うべきことなのだろう。
いや、動物だって優しく接すれば咬まないで交流できる(空腹時は保証できないが)。
そのためには表現することが重要であり、さらに見聞きし想像する力が重要となる。
芸術の真価はそこにあるのではないか?
優れた表現者は誰に何をどんな風に表すかが優れ、同時にその誰かが何を考え何が心地よく何が嫌いか洞察し、イメージする力に長けている。
やってみてこれが嫌なのかと解ることもあるが、ある程度イメージ出来ないと真の優れた表現者ではない。
ヒトラーは優れた絵を描いていたし、マルキ・ド・サドも優れた芸術家であろうが、他者を理解していたかどうか、人の痛みを理解したかどうか・・・。
そのように他を閉ざして威圧し、独善の世界観のみで描く芸術家もあるが、多くは人とは何だろう?
人の心とは何だろう?生命とは?美とは何だろう?と様々な問いかけの中から産まれてくるものだろう。
そんな優れた芸術家の話ではなく、三軒隣の近所の叔父さんや駄菓子屋のお婆ちゃん、近くの農家のお爺さん、飲み屋の女将、ギターを抱えた兄ちゃん、車椅子で散歩する少女、ランドセルが重い一年生の娘。
そんなどこに出もある社会が声をかけ、お互い何が嫌かを知って普通に付き合える。
ある程度言いたいことも腹に据えずちゃんと言い、多少の喧嘩はしても傷つけ合わない。
それはそれぞれの言葉での表現者であり、お互いの気持ちの想像が出来る理解者である。
少し意識を変えるだけで、誰もがそういう芸術家になれるはずだ。
そんなコミュニケーションの関係が出来て、初めて「平和」という言葉を口に出来るのではないか?
人は決して一人で生きているのではないと身をもって悟ったとき、恥を知り、誇りを知り、戦わない状況を生めるのではないか。そうであればどんな表現の形であれ、優れたアーティストに変わりなく、戦わない人たちと言えるのではないか。
北朝鮮と対話するもしないも、我々が個人主義の中にいる限り、いつまでも平行線を辿るしかないだろう。
「解らない!」「許せない!」と皆が思えば、やはり行き着く所、戦争しかないのだ。