Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2009/09

26日間という、健康であるはずの私にとって気が遠くなるような長い入院生活があって、ようやく仕事に復帰した。
腎臓の2㎝ほどの大きな石を、背中に穴を開け、石を割って掻き出す手術をした。
いつも思うに、こんな一般的な治療でも、江戸時代ならどうしようもなく、死んでいたかも知れない。

退院後、初めてフェリーのデッキのから大阪湾を一望する機会があった。
溢れんばかりの日の光に照らされた海と都市と遠くの山を見下ろし、ただただ生きていて良かったという感慨にふけった。
あまりに海は広く、雲は白い。風は私を確かめるように体中を撫で回す。
船の蒸気、手の届くような飛行機の轟音、乗客の会話、都市の活動、その存在を主張するように全ての音が私の耳に届く。
そんな中に巨大な船の警笛が鳴る。
まさに、この時代の、この星のこの土地のこの場所の、今生きているからこそ観られる光景なのだと。

それにしても、この巨大な風景の中に見渡す限り存在する人の生活。なんと人間は栄えてしまったことだろう。
地球の命から観るとほんの数秒の瞬く間にがん細胞のように転移して居座ってしまった。
その生活の音が全て聞こえる。
新たな物を作る工場の横に、それらが使われ終わった多量のゴミの山が見える。
それは人間の汚物の何倍もあろう、人間の創造物の残骸が何処へ行くともなく置かれている。
その向こうに見える高層ビルは燦々と日の光を浴び、不景気といえどいまだ世の最先端であると言わんばかりである。
潰れかけている会社があるといえど、飛行機は人間の時空を変えた文明の象徴として、その勇姿は美しい。
よくぞこれだけ事故を起こさず飛んでいる物だとも思う。
150年前の人がこの光景を見たらなんと思うだろう。
龍馬や西郷達が到底描いた未来とは違うだろう。
しかしそれなりに世界の中に生きて叩かれ、さらに形成した都市の形なのだ。
良いも悪いも必死になって生きてきた結果なのである。その全てがここに聞こえる。
また一万年後の人はなんと思うだろう。
おそらく滅んでしまったどの文明よりも人間の栄えた時代として足跡を残しているだろう。

こんな状態がずっと続くわけがない。ある意味で今垣間見ている夢のような生活、暮らしは何れ変わっていく。変わって行かざるを得ないだろう。
それは心がけだけで変わってけばよいが、変わらざるを得ない何かとてつもない外的要因が加わってくるときだろう。
それは戦争か、異常気象か、宇宙人の到来か、解らない。 ただただここにいて私が聞こえたのは「諸行無常の響き」なのである。ならばと聞こえてくるのは思った通り「奢れるものは久しからず」と。私の観たのは唯々「春の夜の夢」なのか。 恐らく多くの人間がここに立てば同じような事を思い浮かべるかも知れない。生活に追われる時間をもうちょっと裂いて、人間が知恵を出し合う余裕があれば、何か解決していくのかも知れない。
ただ、まだまだ人間は進化の途中なのだろうと思う。病気は治せるようになっても、人間の進む未来については様々な価値観の葛藤もあり、思いつきの知恵を出しても解決には至らない。

子どもたちに必死になって勉強させるのは自分たちの生活を守るためではなく、新しい未来に向けて人間が進化するためのものだと考えた方が良いのではないか?
個人個人がどんなに優れていてもそれを共同で形にする能力がなければ、宝の持ち腐れではないのか?
今の現状をある時代に栄えた文明で終わらせたくなければ、人間はもう一段階進化するために、座禅でも組むように、生活を抜け出て考える時間が必要な気がする。

※この映像は2017になって作ったもので、たまたまこのフェリーの上からの映像が話の冒頭と同じシチュエーションだったので、アップします。

魏志倭人伝ほど心が躍るミステリーはない。正確な中国の資料に残された日本の地名とその矛盾のため、邪馬台国は何処にあるのか?果たして卑弥呼は今の天皇の系列に当たるのか?この答えを出すための決定打が未だに存在しない。
最近、奈良の箸墓古墳がかなり年代的に有力な候補と報道されたが、このようにただ年代が符合するからといって、それ以外の何の証拠もなく卑弥呼の墓と一般人を思い込ませてしまうのは、いささか乱暴な取り上げ方と思った。せめてそこから出土した物と、魏国のその時代の物が一致していれば何かしら確証を得れると思うのだが、決定的な証拠は何一つない。
とにかく魏志倭人伝の中に書かれている邪馬台国への道筋が途中から煙に巻かれ、海の上に出てしまう。たった二千年弱の間に地形がとんでもなく変わってしまうことは考えにくい。様々な推論が出ているが、大概は記入ミスか解釈の違いで強引に自説に導いてしまうようなものが多い。まだ心底納得した説がなかった。
wajinden

私の仕事の同僚のお父さんに大宮眞人さんという方がいる。ご高齢で、歴史研究を生業としている方ではないのだが、九州や中国大陸を飛び回ってその研究成果は半端ではない。この方は『楚辞』で有名な屈原が実は日本に来ていたという独自の説を持っている。その訳は詩の中の古中国の発音の中に日本の古地名が道すがら順番に出てくるというのである。
日本でこの説に関する大宮氏の著書としての単独の書物は出版されていないが、中国にはその本が出ているようである。日本では季刊『南九州文化』や『三州文化』という南九州の歴史や文化を中心とした小雑誌にその論文を載せている。 実際に発音で聞かないと私などは解りにくいのだが、確実に中国の歴史研究家の意見を参考に、緻密に研究されている。特に九州地方の地名は事細かく研究されている。この屈原の詩に関しては、原語の発音の領域も含め、到底私には説明できるものではない。

近年、私にも充分理解できる驚くべき説を立てられたのは、その魏志倭人伝の煙に巻かれた道程の理由である。道程をごまかす理由があれば、魏志に書かれていることは真実を知っていながら嘘をついていることとなる。

それは「呉」の驚異なのだ。

大宮氏は「元寇の約千年前に呉寇があった」としている。 226年、呉は交州を直轄領に組み込み、南海貿易の利益を独占することになった。これをきっかけに、呉は恐らく一気に世界に眼を向けただろう。「呉書」には「孫権伝」に「夷洲、壇洲へ将兵万人を送り、調査させた」という記事がある。230年頃であろう。この『夷洲』『壇洲』が大宮説ではそれぞれ屋久島、種子島に当たるという。
その頃は曹丕がすでに皇帝になり、実質的に漢は衰退し三国志のバランス・オブ・パワーは成り立たず、呉の国は兵力の増強をもはや中国本土には期待できない所があっただろう。そうなると呉は国外に別の軍力を求めて出て行くのは当然の事かも知れない。239年に呉の脅威を感じた倭国は魏に最初の使者を出した。そして魏からの使者も迎え入れる。ただし、邪馬台国への本当の道は記録に残されては困るのだ。
実際に280年頃、呉が滅んでからこうした使者を出す動きも見られなくなり(記録に無いだけかも知れませんが)、それによって日中のおつき合いも疎遠になり空白の4世紀がやって来る・・・これほど筋の通った道程の改ざんの理由はない。

ここで更に大宮氏の屈原の詩と古地名の調査で得た、中国語の古発音による日本の古地名が鍵となって、実際の邪馬台国の場所を特定していく。中国読みだと、架空とされていた地名も順を追って現れてくる。魏の使者は伊都国(福岡県糸島近辺)から九州東海岸を旅をして、結論を言うと宮崎県の都城近辺に倭国があったことになる。使者の帰り道は九州西海岸を旅して伊都国に戻る。ここでも事細かく日本の古地名と中国語読みを対比しているのだが、なかなかローマ字やフリガナだけだと現実的に理解しにくい。
このあたりをどなたか感銘を受けた専門家が、マルチメディア的に本とCD、あるいは特集番組など作って、この壮大なミステリーに大手を賭けるような説を、一目一聴瞭然の編集で顕して欲しい。出土物を闇雲に探るのも良いが、まずは魏書や呉書に書かれている事からこれだけの答えが出てくるものなのだ。

大宮氏はさらにミステリーのもう一つの雄、徐福伝に論を及ばす。徐福の日本における伝説は逆に多すぎて取り留めがない。ただ明らかに徐福が不老不死の薬を求めて目指したのは蓬萊山で、これに相当するのは大宮説では屋久島にある宮之浦岳となる。これも発音で説明されている。
徐福一行も潮の流れに乗れば簡単にこのあたりに来られた。ただ徐福の伝説や名の痕跡はあるものの、それこそ確実に2200年前の漢字文化の何か一品が放射性炭素年代測定で証拠として見つかってくれると存在がはっきりするであろうが。

話は転ぶが、このあたりを日本書紀に吐火羅国の王がやって来た事が書かれていると言うことで、「トカラ列島」と呼ばれている。この名前は先日の皆既日食の時にずいぶん使われていた。私の感覚では吐火羅国は中央アジアのトカレスタン、すなわち今のイランの東北角でアフガニスタン西北部の国境沿いあたりのことを指すのではと思っている。唐会要/初回遣使年次に、タシケント国(石国)の1年後に、吐火羅国が唐に貞観9年5月(635年)朝貢している記録があるらしい。
この辺りの話の展開は次回に譲りたい。


大宮説に話を戻す。私はこれを世紀の大発見と呼んで良いと思っている。福岡で刊行されている『ちくごタイムズ』にも一面に大きく出たりはした。しかし全国紙を賑わすほどの騒ぎにはなっていないし、現実には書店に並ぶような状態でテキストが簡単に入手できない。 これをもっと検証して正当な評価が下るには、様々な人たちに読んでもらい検証してもらわなければ、価値の解らぬまま埋もれてしまうかも知れない。様々な見解が入り議論し、もしさらなる修正が必要であればそれを含めて改訂して、歴史のスタンダードとして存在して欲しい。これは予言の書を解読するのではなく、すでに存在した地名と正規の歴史書の地名の比定が鍵であり、今後の日本の歴史を解く正当な方向性を示唆しているとも言える。

季刊「南九州文化」http://www.bonchi.jp/book/book0191.htm
「三州文化」三州文化社 ℡:0986-22-5804
minamikyusyu
 

↑このページのトップヘ