Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2010/09

ヤクザに脅されて金で解決したら、更にいちゃもんをつけられ、結局全てを徹底的にむしり取られるまでやられてしまうのが世の常である。
そんなことを政治家が知らぬはずもないだろう。

尖閣諸島問題の事である。 国同士の抗争は結局縄張り争いで、シマの拡大で上納金を増やすことが財政を豊かにしていく。
ヤクザだったらここに大物の顔役が居て調停に入ったりする。
お互い納得のいく策を出した上で、ここはひとつおいらの顔を立ててくれねえかと。

アメリカがもう少し立派な親分なら調停を頼んでも良いのだろうが、あまりに私利私欲が強い。
国連がもう少し何とかして欲しいものだが、本来戦勝国の作った機関でしかない所為か、偏った見方でたいした働きもなく、イランの査察に関しては煩いだけだ。
サッカーなどは観ているとちゃんとルールの中に則って、中国だろうがイスラムだろうが審判の決定は絶対だ。
仮にその審判のジャッジが間違っていても、それに従っている。
なぜ地球にはそう言ったものが存在しないのだろう。
全ての国から中立で、領土、宗教、環境、その他の国際法を設定し判断し審判するような機関がなぜ無いのか?
無策な外交を展開するより、どうせ一発の砲弾すら撃てない日本なワケだから、率先してそう言った機関を作ることに力を注いでいかない事には拉致問題も領土問題も解決しない。
それが出来ない限り、世界はいつまで経っても泥沼の戦火の中にあるだろう。

Tyoudeiken
この写真は京王線の広告に載っていた武者小路実篤の硯「澄泥硯」(ちょうでいけん)で、材質がきめ細かく、発墨(はつぼく)が良いとされ、実篤は中でも最高級の物を使用してたという。

実篤は四十歳頃から書画を描くようになり、この硯、自然を題材にした絵を毎日毎日ひたすら描き続け、ついには硯に1.5cmほどの穴を空けてしまったという。(もちろん、その位置にある反転されたアップルマークは僕のコラージュ)
iPhoneの発表があった5年前、即座に手に入れようと思ったが、実際に手に入れるまで4年もかかった。
使えるような道具になったなあと思ったのは最近のiPhone4からのことである。
これ一個で秋田のお祭りをHDビデオ撮影して、編集してDVDに焼き上げたが、今までのDV専用機で録るよりずっと軽くて操作性も良く、綺麗な作品に仕上がった。
PCと同期しているからスケジュールのためだけにMacbookを持ち出さずに済んでいる。
何か思いついたらevernoteを立ち上げ声で録音したり歌ったりする。
家に帰ればもうPCに同期されていてその続きをすぐに作業開始できる。

宮崎駿さんが「その妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人たちが増えるんでしょうね。」と言ったのはipadの事であるが、それはiPhoneも変わらない。
思い起こせばMac plusを持つ前、さらにMS-DOSなんかの時代があり、30年経ってようやくこのiPhoneが出てきて、パーソナル・コンピュータと呼べる時代に入ったのだと思った。

僕の見解だと1985年頃からPCで仕事をする人はちゃんと出来ていた。
特に譜面作りと演奏シュミレーションは、(印刷物としては足らない部分も多かったが)少ない時間でミス無く納得のいく仕上げまで完了することが出来た。
DTMやCAD、会計、顧客などの分野もこの導入でどれだけ時間と手間、コストを削減できたことか。

便利になることは全てが全てが負の部分ばかりではない。
例えば音楽で言えば、曲をイメージした人がそれを実現するまでどれだけ大変か、絵で言えば多くの場合一人で完結する場合が多いが、音楽はまず曲が浮かんでも楽器が弾けなければ実現化できない。
まあその楽器が得意であればよいが、クラリネットの人がソロの曲ばかり浮かぶわけでなく、伴奏が必要となる。
その伴奏になる楽器の奏法のこと、その伴奏者に伝える為の譜面の書き方。
ソロの楽器が活きるための伴奏法。その技術を習得しなければならない。
編成が大きいほど様々な技術が必要となる。
それに伴いそれを実現化するためのお金も営業も、政治力も必要となる。
どんなに頭に浮かんだ曲が素晴らしくても、この全てが揃わないと素晴らしい曲かどうかが解らなかった。
少なくともPCが台頭するまでは。
裏を返せば、いままで音楽の本質ではない技術の部分だけでのさばっていた音楽家が如何に多かったことか。

すでに90年代からDTM(デスクトップ・ミュージック)がかなり盛んになり、ピアノも何の楽器も弾けなければ譜面も書けないと言う状態で、PCのみで作曲の仕事をこなす人が多くなった。
それは技術の習得を怠っていたと言うより、そのイメージを具現化させる道具がすでにあったからと言える。今までなら埋もれたままの才能は、世界に日の目を見るチャンスがやってくた。
それはジャンルは違ってもスティーヴン・ホーキングだって同様なのだ。

PC=いわゆるパーソナルコンピュータは本来、ある特定の業務だけをこなすものではない。
音楽家は譜面やDTMなどの音楽だけの事、病院の会計は顧客管理とカルテの事、本来その特定の業務だけをこなす、専用機だった。
インターネットが出現する頃から音楽家ならCDの録音、マスタリング、チラシの印刷、ホームページでの宣伝、配信、予算の算出からスケジュール管理まで、仕事に疲れたらゲーム機になり、ようやく全てを一台のPCでこなす時代が来た。
今、iPhone等によってこれらが一人の人間の中でリンクする時代がようやく来たのだ。
ロケットで言うと基地、母船、探査機がようやく繋がる時代になった。 つまりこれらは譜面を書いたり、DTMの仕事をさせたり、いわゆる専門の仕事は殆どこなせない(簡易的には可能だが)。

ところが道を歩いてアイディアが浮かぶ、詩が浮かびフレーズが浮かぶ、インターネットで使う言葉や関連などを調べる。
それをevernoteなどに保存しておけば家に帰ってPCでそのまま開いて続きをまとめ、作品にまで持って行ける。
一つここで間違っていけないのは、iPhone等を持っていれば誰でもそれが出来るというのは大きな誤解で、イメージをなんとか具現化しようとか、どうしたらこれが面白みになるかとか、宮崎駿さんも指摘している通り、そう言うことを考える努力(想像力・気力?)を怠っている人には何も出来やしない。
持っている人たちに20年前だったら何の形にもならなかったものに、形になるチャンスを与えてくれているだけのことだ。作ったりパターンを選んだりするのは自分でしかない。

「その妙な手つきで・・・」と言われてもこれはインターフェイスがタッチパネルしか今のところ使えるものが無く、音声入力も出来るが周りが煩いだろうし、まだまだこれから変化してくるだろう。
ロボット工学は鉄腕アトムを初め多くのSF作家達の予想を超えて大して進まなかった。
まだようやく自分をサポートしてくれる道具としての黎明期に入ったところだと思う。
でもそれは自分の無い能力を埋め尽くしてもらうにはまだまだ先の話だし、その役回りを如何に巧みにロボットがしてくれても、作る作業が面白いままで続けられるとは思わない。

宮崎さんのような巨匠はすでに自分のイメージを具現化してくれる人が周りに山と居る。
久石さんのような一流の音楽家も録音の事まで心配しなくとも、一流の技師が着いてくれてサポートしてくれる。
マネージャーが居ればスケジュール管理もすることもないだろう。
宣伝も広告も一から作るとこは先ず考えられない。 僕のような一流でない人のためにはアシストとしてのPCやこういう道具は欠かせない。
かといってなけりゃないでそれなりの道はあるとも思っている。
昔はイメージを具現化する手前で売り込みに成功しなければ形にはならなかった。

今はとにかくあきらめなければ、ヒットするまでは行かなくとも、自分のイメージはある程度具現化できる時代なワケだから、こんな良い時代は無いのかも知れない。

僕の中では曲を作る時も、詩を作る時も、絵を描く時も、演技をする時でも・・、こういう風に描きたいという一つの理想がある。
それは自分というものが見えてこない、匂ってこないものである。

それは自分の心がないという意味ではない。
あくまで自我の主張の固まりのようなものは作りたくない。
何をしたい、何が好きだ、何を食べたい、何は許せない、何は美しい・・・ そんな事を聞かされても、「ああそうかい」と言うしかない。

ま、この文章もそんな類のものだろう。
ただこういう場がないと伝わらない事もあるので、ここではあえて書く。
「無作為」「無為」という言葉が適切かも知れない。
自然を観ていればそれで良い、と言いたくなるかも知れないが、それでもない。
「龍安寺の石庭」のように、真言宗の声明のように、谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」のように、玉三郎さんの舞のように。あくまでも人間の力で自己を越えたものを築きたい。
2009/03/20のblog「音楽はどこからやってくるか」に書いたとおり、自分の中だけでこね繰り回しただけの曲はつまらないと考えるのが自然なのだろう。
即興演奏のように、自分も予期しない音同士の出合いによって生まれる別次元の世界。
自動書記のように夢の中に浮かぶ映像の羅列のような言葉の化学反応。
素材に何を取り入れても構わない、むしろそのイメージのギャップを楽しむコラージュ。

そんな世界にずっと浸っていたい。
ただこの作業が手法で=つまり技術だけで成り立つと思っていけない。あくまで研ぎ澄まされた感覚で、全てを受け入れられる感性が必要となる。
言い方を変えれば「まっくろくろすけ」が見えるような、子どものような目と感覚を持っていなければ見いだせるものではないと思っている。

若い頃には突然取り憑かれたように作品を作り続けるときがある。
僕などはこの時期のものを越えられないで困っている。
今の方がそういったものを形にして、人に解りやすく伝えられる作品を作る事が出来る。
ただ作品の原型を見いだす意味では、そのエネルギーの凄さに圧倒される。
ただ磨かれていないために人に見せて受け入れられるかどうかは別問題である。

こんな話を始めたのも、自分が若い頃作った自動書記の詩が見つかった。
シュールリアリズムに凝っていた時期でもあったが、今の自分にはこんなものは到底作れない。
思えば詩というものが自分の中ではこの時期に終わってしまい、何も書けなくなってしまったに違いない。
曲にしても似たようなところがある。
昔思いついたメロディをいま再構成して曲にしている事がとても多い。

リンク先にその詩を乗せておくが、当時は性的な描写も多いのであまり人に見せたくなかった。
自分の名前が付いて自分の中身を観られるようで嫌だったのだろう。
でも、今ははっきり言える。ここに自分は居ない。
あくまでも何かが憑依して書かされた、「個」としての存在ではないエネルギーを感じ取る事が出来る・・・そう思うのは自分だけだろうか?

幻秘詩集(20代の終わりにから30代にかけて書いた自動書記による詩の一部)

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