Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2011/03

観ている奴が偉そうに色々言うのは何だと思うのだが、地震から3日も天気の良い昼を迎えて、なんで被害状況が明らかにならない?-----(この文は3月14〜15日=地震発生4,5日目に書いたものです)

一刻も争うのだから、ほぼ全てのレスキューや自衛隊を投入して、陸も海も駄目なら空からあるったけのヘリコプターで捜索し、必要であれば避難所に食料物資を落としまくり、これ以上の寒くひもじい思いをさせないように向かうべきだろう。
安否や避難の情報が得られないなら、ドコモに要請して衛星携帯を避難所に2台ずつでも持たせて、そのポイントに食料を落とせばよい。
どのグループがヘリをどこに何台配備して、寸断された道路を高額で雇っても応急的に修繕し、いち早く補給路を確保する必要がある。
もし戦国の戦ならありとあらゆる知恵を働かせて、敵の思惑より先手を打って一夜のうちに城を築いたり、秀吉の中国大返しのように短時間で敵の懐に到達する事で勝利に導く。
我が国の総理はその采配力が無い。
「頑張ってもらいたい」と言う事ばかりでは災害に勝てない。
指揮官は先に述べたような采配を、ある程度は一人の命令系統で、時に言葉を荒げ叱咤し激励し、何としてもそれを遂行させなければならない。
細かなところはそれぞれの専門家に任すにしても。
能力がないのか、勢いがないのか、何かを指揮しているところが見えてこない。
これだけの人をつぎ込んでも、時間が経っても、大きくは何も変わらない。
(だいたい指揮官がヘリコプターで動いて最前線に行くようでは命令系統が機能しない。情報の集まる中心にいて、常に指示を出し続けなければならない。)
持ち場持ち場がそれぞれの判断で勝手に動いている。
様々な地域への配備が偏る。 指導力がないと言われて、新の指導力を発揮する格好の場だったろうに。
確かに想定を越える事が多いだろうが、この決断力のなさが今日本が世界の外交で勝てない理由なのだろう。
もう一方で原発がとんでもない事になっている。
確かに原子力は危ない。
元々こんなものにエネルギー源を任せてしまっては世も末だと思っていた。
そんな考えも月日が経つうちに慣れてしまった。
僕にとっては原爆も、拳銃も砲弾も地雷も、細菌兵器も薬物兵器も、殺戮の道具としては全て同じような気がする。
飛行機と自動車とどっちが危ないというようなもので、能力が低くとも数が多ければ危険なものには変わりない。
この中の最も威力のある原子エネルギーを人間が使いこなそうというのだから、映画のジェラシックパークでティラノザウルスを育てて飼い慣らすのに近い。
結局このパワーを封じ込めずに自滅してしまう。
確かに原発なんて諸刃の刃で、日本を脅かそうとするなら真っ先にここに爆弾を仕掛けて脅せばよい。それだけにここの護りは、津波だろうが、宇宙人の到来だろうが、ここに昭和新山のような山が生まれようが、何があっても揺るがないセキュリティの高さを保っているものだと思っていた。
まあ、結果はご覧の通りいくら予想外とはいえ、あまりにお粗末な防備だ。

防備だけでなく、その突然の事態に対処出来ずに、十数名がどんなに命をかけて頑張っても、計画が明確でない中、結局ウオサオしているようにしか見えない。
ここでも誰が采配を振るっているのか解らない。
無人探査型ロボットのようなものに情報を探らせる。
無人消防車のようなキャタピラタイプの洗車にホースを取り付け放水させる。
このくらいの準備がないなら原発なんて百年早い。
「オール電化」などと謳っておいて、自動車を含め全てが安全な電気になれば良いと言っておき、事があれば節電を要求する。
計画停電とか言って情報が錯綜し、いつ停電になるのか解らない。
よりによって真っ先に被災地に掛かるとこから計画停電を始める。
これからは無計画東電と呼ぼう。
国を護るのは軍備以上に、こういう事態に何が何でも守り抜くという気骨だ。
そうでない世の中にしてしまったのは僕らの責任だ。もっと早く気がついていりゃよかった。
今の日本人は頭は良くともその力に欠けるという事を。
亡くなった方々は本当に可愛そうだ。
心からご冥福申し上げます。
避難してそれ以上に苦しい思いをしている人も沢山いるでしょう。
なんとか頑張って欲しい。
ただ我々を含め、生き残った人たちは悲しみと共に落ち込んではいけない。
「どうせ仕事も家も、明日の日本も何もかもなくなってしまう」と思ったらそれまでだ。
どんな時にも負けないで、笑って元気づけられる、 せめて子どもたちが希望と勇気が沸いてくるような存在でありたい。

地震がおきた時、このデカいのが震源が近くであってほしいと願った。
これだけの大きさだ。
震源地が遠かったら日本は壊滅的だ。
しかしそれは叶わず、震源地は遥か仙台の沖だった。

この世が終わるというイメージがある。 夢に良く出てくる。
戦闘機が空中で制止して、水爆を放置する。
または、街を呑み込む巨大な爆弾輸送機が多摩川に墜落する。
とてつもない、山の大爆発がある。
その恐怖は自分が死ぬという問題よりも、世界が今のバランスを保てない状態に陥る恐怖だ。

それに似た恐怖が走った。
この恐怖とは何だろうと思った。
自分は死んでしまえばその恐怖は逆に感じずに終わってしまう。
問題は、今まで幸せだった事、今まで積み上げてきた事、 ここまで頑張った事、ここまで夢を叶えようとしてきた事。
これが一気にご破算になるという、そこが怖い。 最初から苦しい日々だったり、幸せでも何でもなければ 「なんのためにここまで」と思えるようでなければ、怖くはないかも知れない。

次元が違うが、精魂込めて作ったPCファイルを、 クラッシュで跡形もなく消えてしまったのと感覚は似ている。
作っているものがなければ、クラッシュは恐怖ではない。
こうなると、人は何で生きているのかと思う。 幸
せ、構築、努力、夢など、それの実現に向かう事は意味があるのか?
戦争が起こったり、隕石が衝突しただけでも、簡単に無になってしまう。
始まりがあれば終わりがあり、形があれば、いずれ無くなる。
光が当たれば、影が出来る。
生き残るのものあれば、死んでいくものもある。
食べる側の動物もいれば、食べられる側もいる。すべては不平等なバランスがある。

2010/3/10の「発見のすすめ」にも書いたが、吉田松蔭は死罪が決まってからも牢の中で学問をしたという。死んでしまってからでは誰にも解らないのに。
結局は満足した生活、知識で満タンになった頭脳、それが得られる喜びよりもそこに向かっていく課程が人間は面白いのではないか?
どうせ終わるんだ、どうせ死ぬんだと思うよりも、死んで誰に自慢する幸せで知識でもなく、自分が何かに向かっていく事のエネルギーを出す事そのものに、人間の生きる意味があるのではないか?
僕は無性に思った。 もしこの世が終わるなら、一刻も早く自分の満足のいく作品を作りたい。
誰にも味わってもらえる時間はないかも知れない。
そんなチャンスも要望もないかも知れない。

それでもこの無意味な欲求に従いたいのが本音である。

P.S. 地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
被害に遭われた方にも何かしらの形でサポートさせていただきます。
もちろん、気分的には自分が力になれるものなら、そばに行って一人でも救助したいです。
それでも現れる、どちらかと言えば自分の事しか考えていない思考を正直に書く事で、生きる意味を問いたかったのがこの随想です。

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