僕が大学に入ったばかりの1973年頃だったと思う。
当時は「ノストラダムスの大予言」が流行って、多くの友人は1999年には人類の多くは死滅すると信じていた。 「まあ、多かれ少なかれ、その頃には地球もどうにもならない状態になっているさ」 そんな気分だった。
でも、もの凄く先の話だと思っていた。
あの頃は産業廃棄物が垂れ流し状態で、飛行機も車も排ガスをまき散らし、自然は人間の手垢の付かぬ所などなく、絶滅種は加速度的に増して、地球の陸地は他の生きものが自由に暮らせる場所をまるでシオニストのように奪っていった。
それよりほんの100年前までの地球は飛行機もなければ電話もない。
映画も録音機もほんの数十年前の産物で、テレビや冷蔵庫など、僕が生まれた頃にはまだなかった。
人間は突然多量の電気を使い、多量の輸送をし、多量の情報を扱い、多量の廃棄物を生産する生き方を始め、多量の医薬や治療の発達で簡単には死なないようになってきた。
人間のテンションをグラフで表すとすればあたかも2000年に向かって無限大に近づいているようであった。
まるでその先は考えられないような人類の発展は、その時代に生きた心ある人は、ノストラダムスでなくとも地球のバランスが崩れ、何かとんでもない事が起こると思っていた。
筒井康隆氏の自筆漫画に「急流」というのがある。
「最近時間の経つのがずいぶん早く感じるなあ」と始まり、どんどん加速度的に時間は早くなり、時計の短針の動きまで見えるようになり、2000年に近づくにつれてみんな「あれよあれよ」と言っているうちに全ては滝に落ちていったというお話し。
当時、僕は腹を抱えて笑いながらも、すでに筒井氏と全く同じ感覚を持っていたのを記憶している。
きっとみんながそう思っていた。こんなに一気に人間社会が変わってしまって、人類はノストラダムスに言われるまでもなく2000年まで持たない。
人類の発達は地球にとってはとてつもなく迷惑な事だと。今に罰が当たるぞと。
オーム真理教は、結局何をしたかったのかというと「こんなになった人類の文明をリセットしたい」という感覚が根底にあったと思う。
実際にやった事は革命でも何でもなく、人としてとても許し難くも恥ずかしい行動をとって、世を騒がせただけで終わってしまった。
基本的に新興宗教というものは世の中の動向とは別のところに救いを求めているところが多く、心の病は現代社会からもたらされる事が主体で、末法思想的な感覚になる。
こうなれば今の世の中を無理矢理換えていくか、自分たちの精神をその場から違うところに持って行くか、どちらかしかない。
それを教義で人々に説いていくという道を進むべきだろうが、心は落ち着いても、それで人間の勢いが止まるわけではない。
1999年には何も起こらなかった。
2000年にはPCの誤作動の可能性が恐怖となったがそれもぼや程度で済んだ。
2001年の911が唯一大きな事件であるが、これは20世紀の紛争の延長にあり、見方によっては近代化の象徴であるアメリカを壊す事で地球の文明の勢いを止める闘争と言えない事はない。
2011年の311は滅びの予兆と見るのか、新たな生き方の岐路となるのか、それは解らない。
並べてみて「11」が多いからフリーメーソンが絡んでいるとか、地震兵器の存在がどうとかあるが、これが人為的で荒れ自然災害であれ、地球は人間に対して大きく「待った!」を発したのである。
増えすぎた軍隊蟻や雀蜂、蝗の大群は駆除されるべき対象になるが、人が人にそれをやってはいけない。
しかし天や地球の意志はまさにそれをやらんとしているのかも知れない。
映画「地球が静止する日」のキアヌ・リーヴスもそんな役目だったんだろう。
人間はニーチェの言うように地球の上に絶対的に君臨して、巨大な反発を乗り越え淘汰された「超人」になっていくのか、反発を避け大人しく波風起てず生きていくのか、答えは誰もわからない。
どちらにしても人間が「個」で生きているなどと思っている限り「死」の恐怖から逃れる事は出来ない。
人は人類であり、命は水のようであり、群れを成せば川の流れであり、水の循環であり、海へ行こうと、雲になろうと、雨になろうと、ひたすら生き続ける。生命とはそんなものだと思う。
(ちなみに、最後の「水」のくだりは今度の演奏会、二十五絃箏の曲「水のうた」のテーマである)

青年時代に心読んだクラークの「幼年期の終わり」。こんな宇宙人がいたら、今どうすればよいか助言を聞きたい。
筒井康隆 漫画全集の中に「急流」がある。小節より先に書いている。
当時は「ノストラダムスの大予言」が流行って、多くの友人は1999年には人類の多くは死滅すると信じていた。 「まあ、多かれ少なかれ、その頃には地球もどうにもならない状態になっているさ」 そんな気分だった。
でも、もの凄く先の話だと思っていた。
あの頃は産業廃棄物が垂れ流し状態で、飛行機も車も排ガスをまき散らし、自然は人間の手垢の付かぬ所などなく、絶滅種は加速度的に増して、地球の陸地は他の生きものが自由に暮らせる場所をまるでシオニストのように奪っていった。
それよりほんの100年前までの地球は飛行機もなければ電話もない。
映画も録音機もほんの数十年前の産物で、テレビや冷蔵庫など、僕が生まれた頃にはまだなかった。
人間は突然多量の電気を使い、多量の輸送をし、多量の情報を扱い、多量の廃棄物を生産する生き方を始め、多量の医薬や治療の発達で簡単には死なないようになってきた。
人間のテンションをグラフで表すとすればあたかも2000年に向かって無限大に近づいているようであった。
まるでその先は考えられないような人類の発展は、その時代に生きた心ある人は、ノストラダムスでなくとも地球のバランスが崩れ、何かとんでもない事が起こると思っていた。
筒井康隆氏の自筆漫画に「急流」というのがある。
「最近時間の経つのがずいぶん早く感じるなあ」と始まり、どんどん加速度的に時間は早くなり、時計の短針の動きまで見えるようになり、2000年に近づくにつれてみんな「あれよあれよ」と言っているうちに全ては滝に落ちていったというお話し。
当時、僕は腹を抱えて笑いながらも、すでに筒井氏と全く同じ感覚を持っていたのを記憶している。
きっとみんながそう思っていた。こんなに一気に人間社会が変わってしまって、人類はノストラダムスに言われるまでもなく2000年まで持たない。
人類の発達は地球にとってはとてつもなく迷惑な事だと。今に罰が当たるぞと。
オーム真理教は、結局何をしたかったのかというと「こんなになった人類の文明をリセットしたい」という感覚が根底にあったと思う。
実際にやった事は革命でも何でもなく、人としてとても許し難くも恥ずかしい行動をとって、世を騒がせただけで終わってしまった。
基本的に新興宗教というものは世の中の動向とは別のところに救いを求めているところが多く、心の病は現代社会からもたらされる事が主体で、末法思想的な感覚になる。
こうなれば今の世の中を無理矢理換えていくか、自分たちの精神をその場から違うところに持って行くか、どちらかしかない。
それを教義で人々に説いていくという道を進むべきだろうが、心は落ち着いても、それで人間の勢いが止まるわけではない。
1999年には何も起こらなかった。
2000年にはPCの誤作動の可能性が恐怖となったがそれもぼや程度で済んだ。
2001年の911が唯一大きな事件であるが、これは20世紀の紛争の延長にあり、見方によっては近代化の象徴であるアメリカを壊す事で地球の文明の勢いを止める闘争と言えない事はない。
2011年の311は滅びの予兆と見るのか、新たな生き方の岐路となるのか、それは解らない。
並べてみて「11」が多いからフリーメーソンが絡んでいるとか、地震兵器の存在がどうとかあるが、これが人為的で荒れ自然災害であれ、地球は人間に対して大きく「待った!」を発したのである。
増えすぎた軍隊蟻や雀蜂、蝗の大群は駆除されるべき対象になるが、人が人にそれをやってはいけない。
しかし天や地球の意志はまさにそれをやらんとしているのかも知れない。
映画「地球が静止する日」のキアヌ・リーヴスもそんな役目だったんだろう。
人間はニーチェの言うように地球の上に絶対的に君臨して、巨大な反発を乗り越え淘汰された「超人」になっていくのか、反発を避け大人しく波風起てず生きていくのか、答えは誰もわからない。
どちらにしても人間が「個」で生きているなどと思っている限り「死」の恐怖から逃れる事は出来ない。
人は人類であり、命は水のようであり、群れを成せば川の流れであり、水の循環であり、海へ行こうと、雲になろうと、雨になろうと、ひたすら生き続ける。生命とはそんなものだと思う。
(ちなみに、最後の「水」のくだりは今度の演奏会、二十五絃箏の曲「水のうた」のテーマである)

青年時代に心読んだクラークの「幼年期の終わり」。こんな宇宙人がいたら、今どうすればよいか助言を聞きたい。

筒井康隆 漫画全集の中に「急流」がある。小節より先に書いている。