Yasukuniron小林よしのり氏の「戦争論」や「靖國論」「国防論」等いろいろ読ませてもらった。
オーム真理教追求の頃から一般的に足を踏み入れたくない領域に切り込んでいって、何に遠慮することなく自由に見聞きして感じた事を意のままに書く。
こういった視点の違う角度から様々な出来事を見る事は重要で、僕自身との考えや解釈の違いはあれど、何にでも立ち向かっていく姿勢は評価すべきと思う。
実際に僕が知らなかった事も沢山あるし、共感できる事も沢山ある。
A級戦犯についても誰も触れたがらなかった部分だろうが、世間一般から言われる悪者であってもその生き方と言い分と論理があり、結局この部分を知らなければ同じように歴史は繰り返すのであろう。
それは戦争という者の本質を知る上でとても重要な気がする。

またアメリカ流の個人主義が当たり前の現代において、かなり失われつつある「公」の観念について再認識させられる若者も多いと思う。
人に迷惑さえかけなければどんな生き方をしたって良いという感覚は今の親の世代が持っていて、学校がどんな状態になっているか誰もが知るところだと思う。
これは現段階で道徳の授業で教えられる事ではなく、小林よしのり氏のような役割の人間は必要だと思う。

この小林よしのり氏の考え方でどうしても受け入れがたい事がある。 核武装の事だ。
小林氏だけでなく日本の知識人、政治家の中で如何に核武装論者が多いか、以外に知られていないのではないか。→ 確かに国を護る事は民間レベルでは護れない。
それは街の治安が警察が居ないと守れないのと同じで、ヤクザの抗争に商店街が一致団結してどうにかなるものではない。
みんなが良識があると信じていても、いざモメたら皆殺しになる可能性もある。 敵が銃を持っているなら、更に強力な武器で対抗するしかない。
敵が手榴弾で対抗してきたらダイナマイトを仕掛けるしかない。
敵が大砲を持っているならミサイルを持つしかない。 結局どちらも手の出しようがないとこまで来て、均衡がとれて平和になろうというのが核武装の発想だ。

僕は原子力爆弾だからどうだとか、放射能がどうとかだけで反対するのではない。
それが細菌兵器だろうが、毒ガスだろうが、クリーン水素爆弾だろうが、地球規模の殺戮兵器はもうすでに種の保存の本能から逸脱している。
最終兵器そのものが人間どころか地球そのものすべての生態と環境を滅ぼしてしまうということは、映画「地球が停止する日」に出てくる宇宙人に「自分は地球を護りに来た。
「だから人間を滅ぼす」と言われたってしょうがない。

最終兵器の考え方はすでに石原完爾が戦前から予言するように言っていた事だが、2国間の均衡したパワーの中でのバランスなら良いが、結局盾と矛の関係は無限にインフレーションを起こすのであり、結局の所お金さえ払えばどんな国でも地球全体を脅す事が可能となる。
Afirika 筒井康隆氏に「アフリカの爆弾」というやはり漫画にもなった小説があるのだが、アフリカの小さな国が中古のギガトン級のミサイルを某国から買って帰るその珍道中を描いたものだ。
このクラスになると燃料も飛ぶ機能もついていない。つまり一発で地球全部が吹っ飛んでしまうので、飛ばしても意味はないのだ。
これは世界中の誰もが人質に取られたのと同じで、北朝鮮のような国が持てば「お金くれないとスイッチ押すよ。」と言われたら逆らえないのだ。こうなったら地球滅亡まで、誰かが自暴自棄になるまでの猶予しかない。

これはもう戦争ではない。女にふられた男が飛行機で爆弾を抱えて「みんな道連れで死んでやる」と言っているのと変わらない。
核武装はそんな事の前段階に過ぎない。

こうは言ったものの、国防的に観ればこれをどう回避するのかは解らない。
強いて言えば、少なくとも国連を越えた世界規模の政治化学機関を作り、金融から戦争を含めたそれぞれの国の同行と未来をシミュレートする、どの国からも中立な立場の人間が、新たな国際法を設定する事くらいは必要かと思う。
どの国の国籍も持たず、いわば宇宙人的な視点で思考し、最終兵器の無力化にあらゆる角度から向かっていく、そんな人たちの集合体が欲しい。
最終兵器をどうしても持つという自分勝手な国があれば徹底的に議論し論破し、最終兵器を持った場合の地球の行く末をシミュレーションした結果を見せると良い。
どうすれば国を豊かにするのか、解りやすく道を示すと共に。 ヤクザの大親分のような圧倒的な軍事力を持つアメリカ自体が王道精神を持った立派な国であれば、本来こんな役割は各国がお金を出しても調停役に廻ってもらい、それでカタがつくものなら世界情勢の安定化に努めて欲しいものだ。

しかし現実は軍事産業国家であり、自国の選挙戦の都合でパレスチナの国連加盟承認を反故にしてしまうような、世界戦争の火種を作っている国でしかない。

いづれにしても、核武装や最終兵器の議論をもっとすべきだと思う。「そんな事は議論の余地もない」とはなっから取り上げない話を良く聞くが、「議論の余地無し」はファッショと同じで問題の解決にはならないと思う。論理のないただの毛嫌いは、案外簡単に反対意見側に着いてしまうものである。
持ったらどうなっていくのか、持たないで威信を保つ方法があるか、地球の存亡、日本の存亡に関して、もっと国の予算を裂いてでも考えるべきではないのか。