谷川俊太郎さんと賢作さん(&ロバの音楽座)による毎年5月5日の定番ロバハウスライブ「ことばとあそぶ おととあそぶ」は、2003年に始まり今回で10回目を迎えた。
俊太郎さんとはその前のロバハウス完成時にも2度ほど共演させていただいた。
年々若返っていく俊太郎さんを観て、まるで幼児と接すると若いエネルギーをもらうような感じで、元気になっていく僕がある。
80歳を越えられても朗読するだけでなく、歌ったり、パフォーマンスをしたり、賢作さんとのライブも多い所為か本当に舞台人の様相を成してきた。
歌も朗読も聴かせるというツボを押さえられている。
家には多くのこの会の録音があるが、あきからに10年前と比べると良い意味で本格的な舞台人になられた。
特にロバの音楽座も絡むロバハウスでのこの面白さ、この世界観はいくら言葉を使っても書き表す事は出来ない。ご興味のある方は是非とも5月5日を万事を差し置いて予約されたし。
まだ10年先まではやっているような気がする。
Photo by FUKAHORI mizuho
ライブの数日前に、俊太郎さんのどの詩が今まで一番感銘を受けたのだろうかと、家にある本をいろいろ読み返してみた。
それぞれの時代に素晴らしい作品があるのだが、改めてすごい思ったのは20歳になる前位に書かれた処女作「二十億光年の孤独」にある一連の作品群だ。
恐らくそれはラジオをいじる事と同様、人に読まれる事など意識せず書いたもので、今まで心の中に溜めていたものを一気に溢れさせる事になる。
題にもなっている「孤独」感は決して感情で表さず、むしろ宇宙と自分との関わりの中で、孤独である事を超越してしまっている。
これはまさにインド哲学にある「梵我一如」(小我と大我=宇宙は同じ物で区別がない言う考え)を詩を書いているうちに無意識のうちに宿っているのではないかと。
あえて別なもの、矛盾するもの同士のぶつかり合いも、結局素粒子化してしまえば同じ物で、自分も他人も動物も地球も銀河も分け隔て無い。
だからこそどんな物の中にでも自分を入れられる。
そんな考えの基で谷川さんの中での孤独は悠然と楽しんでさえいる。
今まで色んな評論で本人の内部まで嫌と言うほど分析され、今更僕みたいな薄学?の人間が何かを言う事は奥がましかったのだが、公演の後、あえて俊太郎さんに上記のような内容の解釈を聞いてみた。
俊太郎さんはそれに対して優しく丁寧に答えてくれた。
「後から考えればそうだけど、あの時は確かに無意識の中から哲学的なものが生まれてきた。それまで起こった事の様々な感情がああいった形で出て来たんだよ。
宇宙とのつながりは宮沢賢治の影響も少しあるかも知れないなあ。」
正確でないかも知れないが、もっと綺麗な言葉の流れでこういった内容を答えていただいた。
その嬉しいという気持ちをどう表せばいいかわからない!?
宮沢賢治はもちろん至る処に宇宙が登場するが、例えば「鹿踊りのはじまり」を読んだ時にも、嘉十と鹿と太陽との間の違う世界でありながら一点で結ばれている。
まさにこれが「梵我一如」だと思ったのは僕だけだろうか?
結末は嘉十と鹿達は相容れなかったが、そこが現実の中の孤独となるのではないか・・・。
俊太郎さんとはその前のロバハウス完成時にも2度ほど共演させていただいた。
年々若返っていく俊太郎さんを観て、まるで幼児と接すると若いエネルギーをもらうような感じで、元気になっていく僕がある。
80歳を越えられても朗読するだけでなく、歌ったり、パフォーマンスをしたり、賢作さんとのライブも多い所為か本当に舞台人の様相を成してきた。
歌も朗読も聴かせるというツボを押さえられている。
家には多くのこの会の録音があるが、あきからに10年前と比べると良い意味で本格的な舞台人になられた。
特にロバの音楽座も絡むロバハウスでのこの面白さ、この世界観はいくら言葉を使っても書き表す事は出来ない。ご興味のある方は是非とも5月5日を万事を差し置いて予約されたし。
まだ10年先まではやっているような気がする。

Photo by FUKAHORI mizuho
ライブの数日前に、俊太郎さんのどの詩が今まで一番感銘を受けたのだろうかと、家にある本をいろいろ読み返してみた。
それぞれの時代に素晴らしい作品があるのだが、改めてすごい思ったのは20歳になる前位に書かれた処女作「二十億光年の孤独」にある一連の作品群だ。
恐らくそれはラジオをいじる事と同様、人に読まれる事など意識せず書いたもので、今まで心の中に溜めていたものを一気に溢れさせる事になる。
題にもなっている「孤独」感は決して感情で表さず、むしろ宇宙と自分との関わりの中で、孤独である事を超越してしまっている。
これはまさにインド哲学にある「梵我一如」(小我と大我=宇宙は同じ物で区別がない言う考え)を詩を書いているうちに無意識のうちに宿っているのではないかと。
あえて別なもの、矛盾するもの同士のぶつかり合いも、結局素粒子化してしまえば同じ物で、自分も他人も動物も地球も銀河も分け隔て無い。
だからこそどんな物の中にでも自分を入れられる。
そんな考えの基で谷川さんの中での孤独は悠然と楽しんでさえいる。
今まで色んな評論で本人の内部まで嫌と言うほど分析され、今更僕みたいな薄学?の人間が何かを言う事は奥がましかったのだが、公演の後、あえて俊太郎さんに上記のような内容の解釈を聞いてみた。
俊太郎さんはそれに対して優しく丁寧に答えてくれた。
「後から考えればそうだけど、あの時は確かに無意識の中から哲学的なものが生まれてきた。それまで起こった事の様々な感情がああいった形で出て来たんだよ。
宇宙とのつながりは宮沢賢治の影響も少しあるかも知れないなあ。」
正確でないかも知れないが、もっと綺麗な言葉の流れでこういった内容を答えていただいた。
その嬉しいという気持ちをどう表せばいいかわからない!?
宮沢賢治はもちろん至る処に宇宙が登場するが、例えば「鹿踊りのはじまり」を読んだ時にも、嘉十と鹿と太陽との間の違う世界でありながら一点で結ばれている。
まさにこれが「梵我一如」だと思ったのは僕だけだろうか?
結末は嘉十と鹿達は相容れなかったが、そこが現実の中の孤独となるのではないか・・・。