「幸せ」とは二種類の意味がある。
一つは「優越感」。
もう一つは「不幸の反対語」。
本当の幸せ者は「幸せ」という自覚がない。
幸せの中にいる者は比較することをしないから、自分が幸せだと思っていない。
それは3次元の中にいる自分のことを、2次元でしか見ることができないのと同じだ。
いくら僕が幸せと感じても、他がもっと恵まれた幸せな環境にいればそれを不幸と感じる。
いくら僕の国が不幸と感じても、争いにまみれた貧困な国を思えば自分たちは幸せなんだと感じる。
隣の貧しい人の家庭をのぞき見て「うちは幸せなんだなあ」と思ったりする。
その隣の裕福な家を見ると「うちは何て不幸なんだ」と思う。
その意味では幸せは尺度でしかない。
似た言葉で「喜び」という感覚がある。
優越感で喜びには結びつかない。
かといって不幸ではないからと言って喜ぶわけではない。
自分が喜ぶと言うことは瞬時に喜ぶわけで、比べたりしている時間は無い。
思うがまま、あるがままに喜びはわいてくる。
幸せというものを目指すと、どういうわけか幸せになるための努力や試練のようなものがつきまとう。
喜びというものは目指すことが出来ない。何かに向っていく時に努力や試練で結果的に「喜ぶ」ことになったりする。
蹴ったボールがゴールする喜び、好きな人から声をかけられる喜び、水をやり花が咲いてくる喜び、ノートに書く言葉、楽器に触る音からイメージが生れる喜び、子どもが生れてくる喜び。
喜びはつかぬ間の出来事だろう。ただ比べたりする必要がないから無理をしなくて済む。
その代り喜びの時間を持つためにも、確率の高い環境に身を置くように努力することは大切だ。
そこで得られる喜びは誰から干渉されず、嫉まれもせず、幸せなのである。喜べる瞬間を求める当人は幸せだという自覚がない。
自分のことだけで言えば、こうやってここまで生きてきたことは確かに幸せなことかも知れない。好きな音楽で仕事が出来るだけ幸せかも知れない。
でも全てが好きなようにやれて、豊かな生活が得られたかと言えばそんなことはない。
モーツァルト、吉田松陰、ゴッホ、宮沢賢治、などと比べれば、この方たちは不幸なことには半端ではない。自分が幸せかなんて考えたこともないだろう。
この方々は少なくとも思うようにならない人生の中で、喜びとは何かを知っている人たちで、どんな境遇にあろうが自分の思うところを突詰め喜びを得ているはずだ。その喜びは後世の人間にまで感覚として伝わるのである。
そんな幸せ者に自分はなりたい。