Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2017/03

 meny3
誰にでももっとこうなりたい、こうなって欲しい、そんな「願い」というものがある。
これはどんな生命にもある。もっと子孫を増やしたい。自分の種族を絶やしたくない。永遠の命を得たい。進化とはそんな「願い」が繋がって生れたものだ。

この「願い」のほとんどは叶えられない。種の多くは環境や他の種族に取込まれ滅んでいく。
種の中の個になればさらにほとんどの「願い」は退けられる。海老のような小さな生物ならまず大人になるまでに大半が食物連鎖の中で食べられてしまう。大人になったものも、交尾ができて子孫を残せるものはほんの一握りになる。それでもまた沢山の子孫の中からわずかな生残りが種を繋いでくれる。

人はまだ恵まれている。子どもが多量に死ぬ環境にはない。ほとんどが大人まで成長して、子孫を残すまでの確率は高い。この他の生物と比べて比較的安定した環境から、人はそれぞれの「願い=夢」を持つ。
この「願い=夢」の内容は極めて個人的である。自分の生活を良くしたい。最愛の異性に巡り会いたい。贅沢な食欲・性欲を満たせる環境を作りたい。同種の仲間に勝ちたい。その道の一番になりたい。あわよくばそれらの全てを満たしたい者もいる。

多くの人の「願い」が今の生活より高い生活水準であれば、そこには争いが起る。実際に争わないまでも誰かが勝てば誰かが沈む。恋愛もモテる異性なら争わなければ勝てない。美味い食べ物も生産量が限られていれば、高い生活水準の者にしか行渡らない。

つまり「願い」というものの多くは、努力すれば誰にでも叶えられるものではなく、進化の法則と同じように生き残れるほど強くないと叶えられない。つまりほとんどの人の夢は叶わない。あきらめなければ夢は叶うと言うが、人の夢を押しのけなければ夢が叶わなくなる事が多い。
ある国の王様になる夢を持つ人が100人いれば、それは争いで一人だけ王様になり、後の人の夢は叶わない。ボクシングの世界チャンピオンになりたい人が1万人いれば、数十人しかその夢は叶わない。夢は大きいほど儚い。

そんなとても叶わない夢を現代では疑似体験で叶えてくれる。映画やテレビのドラマもその一つだ。夢に向わない自分の替りにサクセスストーリーを体験して幸せな生涯を送ったり出来る。それも多ければ1日ごとにリセットして違う人生を共有できる。
ゲームなどのバーチャルリアリティの世界も自分の判断操作で夢を操作できる、さらに疑似体験を深める世界となれる。魔王を倒す世界の英雄になる可能性もあるし、校内一の美女を口説き落し素晴しい恋愛体験もできる。やり直しもきくから何度でも夢は叶う。実際に人を押しのけなくても良い。
辛い現実の世界、醜い政治、不安な世界情勢。そんなことより誰も傷つけずに自分の欲求を満足させる事が出来る。ゲーマーは平和主義者なのだ。

ただ現実を逃避してしまうと、子孫も出来ず生産性もない、腹を満たしてくれず実体のない空の中で生きていく事になる。これだけやって生きていくなら人類は滅亡に向うだろう。

そんな中、人間が大昔からたやすく夢を叶えるものがすでにある。文学、音楽、舞踏、演劇、その他の芸術的な作業全てである。
この夢に「世界一の」とか「食べていけるプロの」等と尾ひれが付けば簡単に叶わない夢なのだが、想像性、創造性、独自性、伝達性、それらは他と比べるべきものではない。個の中で夢を描き、空想し、求め、創造し、自由を得て形にする。
それは様々な人の干渉を受けても受けなくても、自分の作りたい世界を築き完結する。
うまく行けば、そこには争いもなければ優劣もない。むしろ共有すれば、目には見えない心のつながりをもたらす事も可能だ。

生活に追われていても、少しの時間を作っていく事で何かを作る事が可能になる。日本人だったら時間に追われていても、俳句を作るくらいの余暇を作る事は可能かもしれない。そういう想像力を生む環境を生活に埋込んでいく事が大事なのではないか?

補足だが、宗教も同様の役割を持っているだろう。しかしその中においても「願い」は極めて想像性豊かなものでないと、多くの宗教の「願い」は全てがその宗教に入信してもらう事が多く、他宗教と排他的な関係から解放されず争いが絶えない。

綺麗事かもしれないが、人間の「願い」とか「価値観」が冨や権力や国歌愛・家族愛等に支配されないものになる事で、平穏な世界が続くことになる。誰もが仕事を持ちながらでもそういう想像力創造性に満ちた夢を持ち、それらの表現による隣人のコミュニケーションや理解する力が進めば、最低限の生活の中でも不満は起きず、争いは激減するだろう。

数日前にプサルテリー即興第2弾を録音録画編集した。
別にオカルト的な話ではないのだが、自分以外の力によって弾かされる事がある。 
人によっては神の啓示だとか、霊界の仕業と言うかもしれない。
もともと音楽なんて空気の流れや密度がそれぞれ共鳴したりそれが密集したり離れたり、緊張したり解放されたり、そんな現象を楽しむものだ。
それは人の心の構造に近いと思う。つまりこの動きに人が意味を付けていけば感情と言うものになる

この空気の流れが見える時がある。この流れに身を任せると、まるで波に乗る様にすらすらと音や言葉が生まれて来る。即興、自動書記、書道、自由舞踏、様々な分野で何かが生まれるきっかけとなる。
手ほどきを受けた技術や知識はむしろ邪魔になる。力も抜け切った、邪念を出し切った、まっさらの何もない状態ほど、魅力のあるものが生まれやすいと思っている。

3年前にアップしたPsaltry improvisationは再生回数が4万を超えた。この楽器の即興は音を出しているうちに、自然に無作為の世界に入り込んでいく。
限られた奏法、限られた音階から欲望も作為も飛んでいく。弾き終わって自分が何を引いたか殆ど覚えていないし、何を考えていたかも朧げだ。
人がいるとサービス精神も生まれ、人が居るだけで集中出来ないから、こうやって録音や録画を撮るしか方法はない。
最近、夜中に突然録りたくなってiPhone2台とPCを立ち上げ、調弦以外何の準備もなく始めてみた。小一時間ほど弾いたがだんだん雑念が多くなり、結局冒頭の10分間が最も良く、そのまま使った。

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