
(2017/5/5 桧垣康彦氏撮影)
今年の「春のオンガッカイ」は全て無事終了し、今年も谷川さん親子とお客さんと素敵な時間を共有しました。
谷川さんとの今年のジョイントメインは絵:川原田 徹, 詩:谷川 俊太郎の絵本「かぼちゃごよみ」を素材に、プロジェクタ投影して俊太郎さんが詩を読み、ロバと賢作さんが交互に演奏しました。
川原田氏は北九州市門司の出身で、ブリューゲルやボッシュに影響を受けた強烈な画素材を鏤め、門司の昔の風景をさらに超現実的に変えていく様な不可思議な絵が展開されます。1月から12月までの十二枚の絵に谷川さんがその絵に則したり則さなかったりして詩を書いています。
今回の企画が決る前に、僕は既に六月の詩に曲を付けていました。
あまだれは おなじおと
むかしもいまも おなじおと
あまだれは おなじおと
あのまちもこのむらも おなじおと
おもいだせそうで おもいだせないおもいでのように
かさでかおをかくして あるいてくるのは
だれ?
<谷川俊太郎>「かぼちゃごよみ」より
本来、淡々とした情景を歌ったものと感じるものかも知れませんが、僕の解釈は違いました。
まず、普通なら「雨だれはあんな音、こんな音、色んな音が聞えていいね」と来そうな所ですが、あえて「同じ音」としたのには訳がありそうでした。
ひょっとしたら雨だれは、人間一人ひとりの事を指しているのかも知れない。雨だれがが音を発する事は人間の営みであり、それは如何に文明が変ろうとも、昔も今も、アフリカも中国も、金持も学歴も、基本的に変らない。極端に言えば人間も動物も生き方が大きく変るわけではない。より「不変」「永劫」を表しているのではと思いました。
確かに原子レベルで考えれば全てのものは原子核と電子の組合わせで出来ています。組合わせが違うから違うもののように見えて、実は全ては同じもので出来ています。
ヒンズーの教えに「梵我一如」というのがあり、宇宙と個人は同一のもので、自分と他は区別がなく、宇宙全体でひとつの生命という素敵な考え方です。
手塚治虫の「ブッダ」では、乳粥をくれたスジャータが死にそうになり魂の輪の中に入ってしまうのですが、ブッダが神様にスジャータの魂を返して欲しいというと、
「その辺の好きな魂を持って帰りなさい。どれも同じようなもんじゃ」
と言って生返らせるというシーンがあります。
これは史実とは全く関係ないフィクションですが、端的に梵我一如を表していると思います。
また鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」に近いのような気がします。生れては消え生れてはまた消える人の生と営み。ただここに出てくる「不変」は「無常」と対を成し、谷川さんの詩ではざっくりと「無常」は省略されています。
心はあまだれのようにひとつの雲から生れて、その落ちた環境によってそれぞれの道を歩みますが、元は同じものです。
そうなると「思い出せない思い出」というものも他の人と共有しているものかも知れません。夕日を見るとなぜか懐かしさを感じたり、山を見れば晴晴れとした気持になる。人は大きく捉えれば君は僕で、僕は皆だ。
歩いてくるのはよく見たら自分かもしれない。
実は打上げの時にこの話をしたかったのですが、まとめないとなかなか正確に伝えにくいので、いずれ文章で聞いてみたいと思います。きっと全然違っているんだと思います。でも僕がそう捉えたのも事実であり、同じものを観ていても幾つもの世界が見える。
素晴しい詩はそんな許容量を持っているような気がします。
この詩に曲を付けるのにその同じ構成要素を見方によって違う情景に見えるよう、小節単位でどこからでも出入り可能な無限カノンを作ってみました。伴奏は一小節のみのオスティナートが永遠に繰返されます。