Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2017/07

北朝鮮の動向に煽られ、韓国軍が「平壌攻撃」映像を公開し挑発し、米軍が朝鮮半島の周辺にB1爆撃機を飛行させて爆弾の投下訓練して挑発し、軍備を誇示しながら圧力で北朝鮮を押さえつけようとしている。
それに日本は乗っかって北朝鮮に屈すまいと圧力をかけ、米軍と共同で演習をし、軍事大国化を目指す準備をしている。

もともとこの戦争は何なんだ?本当に敵国を倒すためのものなのか?
もし敵国の機能を壊滅状態にするなら2〜3人で水源に行って猛毒や細菌兵器を流すか、原子力発電所に一人のテロリストを自爆させるだけで、日本などはほぼ立直れなくなる。
日本だって他国を殺戮する軍備が必要なら、御大層な人数をかけたりせずに、核爆弾などを保有せずに、一千万円程度でそういう組織を作れば良い。後の軍備を経済に廻せば良い。結果が同じではないか?

前々から僕は言っているが、おそらく国という存在が「威信」というものでその存在感をアピールし合っているに過ぎない。「威信」はあくまで強く見せる事で自分の発言権を得るためのもので、そのために軍備を増強する。
結局「威信」がプロレスの虚勢張りのようなものだとすれば、如何に相手に「イカレている!?」と思わせれば優勢に立つ。今の北朝鮮だ。
ところが「イカレている」同士が引っ込みが付かないところまで行くと本当にことこん「イカレた」行為をしでかす。それが怖い。

この「イカレ」度を張り合って世界が混乱に落ちている。ISの戦争とはちょっと違うが、これだってお互いの目的や利害を話合えば解決策はゼロではない。結局復讐の連鎖がどんどん解決から遠のかせている話でしかない。

例えばだが、「ロード・オブ・ザ・リング」で国が支配される事を選ぶか、戦うことを選ぶかの選択を迫られた時、国を護るという意味では明らかに戦う事を選ぶ方が僕は正しいとは思った。目の前で家族や友人が殺されそうになったら戦う。これは当然かもしれない。
かと言って僅かな脅威の可能性のために軍備というものを、常に強大に準備しておく必要はあるのか?ここは疑問が残る。
国というものは常に仮想敵と軍備増強で、その脅威に立ち向うために団結し、国がまとまる。老子の言う「小国寡民」の思想で、色んな国が様々な情報も持たず干渉もせず、小さなまとまりだけでやっていけるなら本当に争いも少なく、安定した時代は築けるはずなのである。

今はこの状況とは違う。技術力と情報と威信とのせめぎ合いだ。まあ政府の立場になってみれば日本という国はなんとか仮想敵を北朝鮮にして団結しそうだが、実際に本格的な脅威ではないし、もう一歩まとめるための材料が要る。。

そのもう一つの団結方法が「宗教」だ。閣僚のほとんどが参加している「日本会議」の存在は誰でも知っているだろう。明治時代の国をまとめた同じ方法で日本を同じ思想の元でまとめようとするものだ。
美しい日本は確かに僕の好きな言葉でもある。無私無欲で人に接することが出来たらどんなに良いことだろうかとも。
でも実際の政治は美しくない嘘と虚構の連続で、私欲にも富んでいる。例えそれが日本にとって良かれという事であっても、汚い手を使うことは宗教的にはどうなのだろう。

と言うことは、「日本会議」は宗教を利用しているに過ぎない気がする。
日本の神道側が誰でも「日本会議」に賛同しているのか疑問だが、とにかく国を護るという意味では神社側は否定もできない。

護るためには軍備を備え、仮想敵に一丸となって向い、規律正しく無私敬愛の心で危機を乗切ろうという流れである。残念ながら今の日本人の思考は多様化していて、無理をして危機感を煽っても決して一丸にはならない。それを無理矢理力ずくでも一丸に使用というのが今の政権のやり方だ。
いまさら情報統制が出来るわけでもないのに、それこそ無理をすれば血が流れる。でも政府はそれが良かれと思ってやっていることは確かだ。頭が悪いだけだ。

本来の神道の考え方は僕も好きだし、「君が代」だって「教育勅語」だってその存在自体(歴史の流れからすれば)そんなに否定されるものではない。でも従わないからと言って全てを統制し、監視し、宗教の名の元で従わせるのはあまりの傲慢な考えである。

本当の日本を取戻すなら、縄文期に遡り、生活が厳しくとも穏やかに暮していた原日本の姿思い起して欲しい。ニーチェ的な権力への意志とは無縁な、むしろ老子の小国寡民的な、これこそ日本が黄金の国と呼ばれたゆえんだと思っている。

 

何から話そうか?

とてつもなくやるせない時は声も出ない。
それは自分のことではない。人と言うより、生命全体への危惧だ。

6年前の津波の時も、昨年の熊本地震の時も、今回福岡の洪水を見るに付けても、どこか自分に被害が来なかったことを良しとしている自分が居る。
自分の仲間や知合いが巻込まれなかったことを良しとしている自分が居座る。

自分がシリアの難民でなかったことを嬉しく思う自分が居る。
ソマリアの紛争に巻込まれない環境で良かったと思う自分が居る。
ベトナム戦争で人を殺す役を追わなくてラッキーと思う自分が居る。

食物連鎖で大半が捕食されてしまうプランクトンに生れてこなくて良かったと思う自分。
蜻蛉のように3日しか生きられない運命を背負わずに良かったと思う自分。
滅びゆく星の中で、なすすべもない自分に生れなくて良かったと思う自分。

どうかしている。
自分さえ良けりゃ何て、考えてみりゃあ勝手だ。
たしかに僅かばかりの平和が、思い通りにならない人と比べちゃあ申訳ない。

我々が神になったら、どんなシステムを考えるのだろうか?
地球上の生命がそれぞれ真面目に勤めて生きているなら、願いの一つでも叶えてやろうとか、そんな優しい神になれるのか?
現実に作られた食物連鎖、弱肉強食、富と貧困、これらはどうすれば解決するのか。
少しの願いでも叶うなんて出来るのは、一握りの生命に限られるのではないか。

生命一つの命なんて軽いものかも知れない。でもその生命一つの中に無数の願いがあり、ドラマがあり、知恵があり、心がある。これらの大半が無になっていくのはあまりのエネルギーの無駄に思える。

神はこの事を無駄とは思わないのか?それを繰返すことで何か別の次元のものが生れてくるのか?
それとも、ただこれを暮れ返すことが宇宙の在り方なのか?

いつまで経っても幸運だけで世を渡る自分を素直に喜べない。

普通のクラシックのコンサートとはちょっと異なる、演出家、美術家、照明家が音楽を彩る、「夏」の情景がハーモニーホールに展開します。
音楽と美術と光の共演
情景Vol.1 「夏」
Dear Forever Friends.
平成29年8月6日(日)
那須野が原ハーモニーコンサート 
 

【委嘱作品】Trumpet. Violin. Cello. Piano.のためのそら木霊こだまAntimatterアンチマター
作曲:上野哲生 
 

美しい夏の夜空を仰ぐ時に、私は宇宙の始りを想像します。

最初の宇宙は小さな塊が爆発し物質・反物質が生れ、それぞれが出合うと爆発し消滅しそれが繰返され広大に飛散って、今の宇宙=私たちの地球や太陽を作ったと言われています。そんな宇宙の形成をイメージした作品です。

同じようは物質が生れては分裂していく様は、さながら木霊=エコーのように細かな単位でのカノンが繰返されていくような現象だと思っています。ミニマルミュージックに近い手法ですが、要素は次から次へと変化し、最終的に形ある美しい星たちを作り、私たちの地球を作ります。


ぜひ聴いていただきたい作品です。生の舞台作りも素晴しい出来が期待されます。

これは練習風景です。プロモーションとしてアップしました。
 

 

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