安倍政権の「メディア締め付け」が国際社会で浮き彫りになった。国連人権理事会は14日、約5年ぶりに日本の人権状況を審査する作業部会を開いた。米国などの加盟国から、日本の「報道の自由」についての問題が初めて取り上げられ、懸念を示す声が続出した。

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ブラジルやベラルーシは、特定秘密保護法が「報道の自由」を萎縮させていると指摘。米国やオーストリアは、放送局の電波停止権限を規定する放送法4条の改正の必要性にまで踏み込んだ。日本の「報道の自由」を巡っては、人権理のデービッド・ケイ特別報告者が5月に調査報告を公表。特定秘密保護法や放送法の改正を勧告していた。

 

作業部会で日本側は、「表現の自由は憲法で保障され、放送法の運用でもメディアの独立を尊重している」と反論。しかし、秘密保護法を巡っては日本国内で過去に「表現や報道の自由を侵害し憲法違反」などとする訴訟にまで発展した経緯がある。

 

国際NGO「国境なき記者団」がまとめる「報道の自由度ランキング」(2017年)でも、日本は180カ国・地域のうち72位にとどまる。海外諸国にすっかり見透かされている。


(日刊現代11/15より引用)


公式な統計ではないが、どうも日本は世界で一番「いじめ」の多い国らしい。
「いじめ」はなぜ起るかというと、僕の見解は「個性を認めない」ことだ。
異常な友達同士の結びつき、その中で空気の読めない者、ノリの悪い者、一人違う行動を犯すものは徹底的に排除される。

僕はこの日本における「いじめ」と「報道の自由問題」はリンクしていると思う。
色んな人がいて色んな意見があり、社会は多種多様だから面白い。そう思っていた。
これを許さないのは日本がまだ国を持たない集落の時代からで、秩序を乱す者は村八分にされた。新しいものや個性の出現を嫌うのは今に始ったことではない。

「長いものには巻かれろ」「郷に入れば郷に従え」
日本はあの戦争を始めたこと以上に、終らせられなかったことが罪深いと思う。
だれも「もうやめよう」と言えなかった。

日本人は伝統を重んじ、良いところは沢山ある。でも、この大勢に対してものを言えない精神はまさに「心の革命」が必要である。
自分の想像の範疇に収らないものの出現を受入れて理解する器もなければ、人間的にも日本の産業面でも成長進化はしていかないだろう。

まずは自分の言っていることが「絶対」正しいと言張る輩には、節理はそれだけではないと言える人間になりたい。


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(FBに書いた自分のコメント) 

確かに自由になることに権利を過度に主張するとクレーマーの世界に陥るでしょう。世の中は進んでいきません。
渡り鳥の隊列、無数の鰊の回遊、確かに乱れては存亡に関わるでしょう。

僕が、特にロバの学校などに参加する一人一人の子どもの個性が、エジソンやアインシュタイン、谷川俊太郎、坂東玉三郎を凌駕するくらいのイマジネーションを持っているのではと思うことがあります。実際に彼らはそれを表す手段を持たないだけで、自由な環境の中で見せた輝きは普段の小学校などの生活の中に戻るとしぼんだ普通の子に戻っていく。
その子たちが仮に全て開化したら、とんでもない未来がやってくるかも知れない。本当は個性ばかりだと衝突してまとまらないかもしれないが、まとまる智恵を打出していけば、どんな困難なことも解決する方法論が生れてくると思う。

そのためには自分の個性を出すことも大事だけれど、人の個性も認め、理解する力が必要となる。そのためにも全ての芸術的表現的パフォーマンスが必要になると思います。新しい時代はその先にあるような気がします。楽観的な見方ですが。