Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2019/09

平成12年に初演を迎えた、広島友好作、印南貞人演出、劇団なすの作品「那須野の大地」は令和元年9月15日那須塩原市三島ホールにて20周年を迎えます。同じ那須塩原市の劇団らくりん座のサポートを受けて舞台を著名なスタッフで固め、音楽は僕が担当しました。精霊のように登場する狐たち全員にアイルランドのティンホイッスルを演奏させるという、どこにもないスタイルが舞台を彩ります。

15回記念公演の時、僕の作ったメロディに劇団員から募集して詞を付けるという企画から生れたのが、劇の最後に全員で歌われる「那須野の空」です。劇団員がカーテンコールに想いを込めて歌うこの歌声があまりに素晴しいので、20周年の記念にぜひ記憶に残しておきたいと思い、他の歌や音楽を含めたショートCDとして完成に至りました。ぜひお聴き下さい。税込500円というタピオカより安い破格?です。(ジャケット無しのケースとCDのみです)

9月15日の「那須野の大地」の公演で販売開始となりますが、15日以降、自分のHPでも販売します。こちらから試聴も出来ます。

CDはこちらから
https://www.tessey49.com/nasuno

「那須野の大地」の公演はこちらから
http://www.city.nasushiobara.lg.jp/44/003773.html
 

69789482_2463334350415634_7558744460700418048_n

2年前の動画「菅原博治米寿の会--慶びの歌」で歌った、律子の実家=菅原家のメンバーに松川君を加えて(欠席者あり)、祐子ちゃんの還暦の会をお盆の時期に合わせて行いました。

ロバの学校で歌った「笑いの魔法」は祐子ちゃんに内緒だったため、デモを送っただけで、1分の打合せの後、ぶっつけ本番で歌っています。
博治さんは途中、真室川音頭を歌っています。
そして祐子ちゃんのお返しのオカリナ演奏もあります。これも湯沢に着いて2度ほど練習しただけです。
上野家以外専門家のいない中、みんな音楽大好きで凄いです!
 

僕はこの話をするとき、律子から「人には自慢にしか聞えないからよしなさい!」と強く言われる。
ただ自分の音楽を振りかえるにあたって、この人の影響と付合いは語らないわけには行かない。
ビートルズを始めとするプログレ系ロック、リゲッティを始めとする映画に使われたオケを使った現代音楽、即興音楽の山下洋輔氏、カテリーナ古楽合奏団の古楽器と自由な古楽、それらと並ぶほど大きな影響を受けた音楽家だ。
むしろこの方に出会ったからこそ、古楽を含んだ僕の今の音楽の流れが在ると思っている。

名前は藤澤守という方だ。
僕は高校時代に北九州市に住んでいた関係で溝上日出夫先生という作曲家に和声学などを習い、何とか国立音楽大学の作曲科に入った。美しい歌曲や子どもの歌でも有名だが、僕にとってはこの先生に紹介された人の出会いによって人生を大きく左右されている。
ロバのがりゅうさん。当時2年先輩の藤澤さん。同門の兄弟子にあたる山下洋輔さん。僕の奥さんの律子。まだまだ挙げ出せばきりが無い。

僕が音大を卒業する頃、本格的にスタジオで映画やレコード録音などでの譜面を隠し事をしたいので、誰かを紹介して欲しいとお願いしていたら、弟子ではないが最近気があっているプロの仕事もしている学生が居る、と紹介されたのが藤澤さんだった。
すでに映画の音楽を担当していて、大規模なスタジオレコーディングのアレンジもガンガンやっていた。

僕は大学卒業前だったが、藤澤さんに色んなスタジオ現場に連れて行ってもらい、様々なノウハウを教わった。非常に愛情豊かな方で本当に後輩と言うだけでなく僕を可愛がってくれた。
でもどちらかというと、スコアを書く仕事の影響より、彼の音楽の考え方、とりわけ現代の音楽の在り方について様々な事を教わった。音楽というものの概念の捉え方だ。
特にテリーライリーを始めとするミニマルアート。こういった音楽の概念に影響を受けていると、こんな時期から安定した仕事のことを考えている場合ではないとも思った。
音楽の時間軸と空間軸の考え方。音楽に自我を出さない無為の音楽。感性の否定。文化の流れの中の音楽。独自性。要素の一本化。彼の言葉は同じ言葉ではないが僕はそう解釈している。
今、それを肯定することも在れば、否定することも有り、その上で僕は古楽をやっていく道を選んだと行って過言ではない。

僕はすでに表現媒体として安物だがシンセサイザーを持っていた。当時はとても珍しいもので、藤澤さんの仕事でスタジオに持っていくとプロのミュージシャンの間でも珍しくてのぞきに来た。まだ冨田勲氏がシンセで最初のレコードを発売して間もない頃だ。
僕は藤澤さんにシンセの導入を薦め、それに関しては僕も時間をかけて指導した。

そんなやり取りをしているうちに藤澤さんが「バンドを組まないか」と思わぬ方向性を打出した。バンドと言っても所謂ベースやドラムの居るバンドではなく、ミニマルアートを表現するバンドだ。僕は作曲科の知合いなどを数人集めて、オルガンやシンセを使ってスティーブライヒやライリーなどのパターンミュージックをやるグループとして細々と始った。
まだYMOが出てくる随分前だし、クラフトワークの存在もよく知らない時代、そんな活動の始りがあった。僕は表現媒体として眠らせていたエレクトリックギターを復活させ、ライブをやってレコード化の直前までこぎつけていた。
色々試行錯誤していくうちになかなか納得した形は出来ず、最後は藤澤さんとパーカッションの有名な女性と僕との3人でスーパートリオを組むのが最善かと言うところに落着いた。

ただ、藤澤さんはこういうお金にならない活動をしているだけではなく、常にスタジオ関係の仕事は共存させていた。僕も自分の音楽表現の視野を拡げるため、ギターを使って多重録音した音楽で個展をしたり、自分の音楽スタイルを固めようとしていた。

そんな中で僕はカテリーナ古楽合奏団を知ってしまった。すでに溝上先生に紹介されていたのだが、藤澤さんに色々学んだ音楽の考え方は、自分の中では古楽をやる事によって完結する。少なくとも僕の中ではそういう流れが生れた。
簡単に言えば、ミニマルの考え方は古楽器を使う事で僕にとって完成するという確信を持てた。表現を越えた無為の世界であり、独自的に成り得、即興性に満ちている。
藤澤さんは民族楽器や古楽器などに安易に走るのを否定していたが、その考えは僕とは大きく違ってきた。僕は真っ向から古楽をやる事で、(仮にその先にあるのが古楽でなくとも)まさしく自分にとっての音楽の在り方だと思った。

僕はせっかく3人で動こうとしていた藤澤さんの気持を裏切った。気持を伝えたとき「それは良かったね」とは言ってくれなかった。愛情豊かな藤澤さんはおそらく一生僕を許さないだろう。徐々に徐々にだが藤澤さんとの関係は疎遠になっていった。

それから数年後、宮崎駿の最初のヒット作「風の谷のナウシカ」が上映された。音楽を久石譲。藤澤さんの当初からの芸名だ。それにはさすがに驚いた。
「僕は映画作家になりたい。それが一番の夢だ。」
当時から映画に関わりたければ週に3本は映画を観ろと言っていた。少なくとも自分はそうしていると。彼は夢を叶えた。実際に映画の監督もした。
藤澤さんは感性の否定で、メロディも否定していた時期があったが、トトロやさんぽのような曲も作るんだと驚いた。その後は周知のように、日本の誰も知らない人がいないような音楽家となり第一線で活躍している。

ただ、僕は一般の人たちが久石譲は凄いと言うほど、何が抜きん出ているのを感じ凄いと言っているのか解らない。
彼は生粋のメロディメーカーではない。宮崎アニメがなければそこまで世界が騒ぐほど注目を浴びたのだろうか?
彼の凄さは僕は知っている。映像の中のオケの音色の選び方。特に「ダイオウイカ」の映像や「千と千尋」の水のシーンのBGM。その他、神秘的な絵にまつわる音の付け方は世界の誰にも真似できない。ただこのオケの感覚やスコアの技術を世界に誇っても、理解する人はほとんどいない。
反対に「君を乗せて」や「トトロ」のメロディくらいなら宮崎映画がヒットしなければ埋れているだろう。自分の評価は一人歩きして、実力は世間と違うところにあるのは自身でも解って悔んでおられるのではないだろうか?

「当時ミニマルのグループを組んでいた」くらいの下りしか彼の記述の中に僕をはじめ僕等の仲間も登場してこない。もはや現在の彼にとっては些細な思い出でしかないだろう。
彼にとって僕ら去る者は追わずで忘れられていく存在だが、逆に言えばそれが不公平に思えるほど僕にとっては大きな影響があり、その線上に僕の音楽は成立っている。
申訳ないという思いもあるけれど、それだけ大きな存在だと認めていたと言うことをどこかで伝えたいなと思う。

↑このページのトップヘ