子どもの頃は僕は野球少年だった。
小学校卒業の頃まで暇さえあれば野球をしていた。小5の頃はそこそこ飛ばし屋だった。守備は肩が弱くあまり上手くなかったが、それでも小学校の代表に選ばれたりした。
その野球少年が一番憧れていたのが野村克也選手だった。
 

子どもの頃は王や長島が活躍した全盛期で、本来僕の周りは殆ど巨人ファンだった。
叔母が報知新聞社に勤めていたため、巨人戦はたまに連れて行ってもらった。後楽園スタジアムのグラウンドは子どもにとっても輝かしかった。
まだ川上哲治が監督と選手を兼任する頃で、朱バットで代打に出たりしていた。王貞治も最近までピッチャーだった名残で、たまにマウンドを踏んでいる姿があった。長島は仕草がひたすらかっこよかった。金田も現役で登板は無かったが、まさに全盛期で投球練習を拝む事が出来た。

観に行った試合は大概巨人が大敗した。当時金田がいても最下位の国鉄スワローズに1対12で負けたりしていた。なので巨人は強いチームと思わなかった。
テレビが家に入ったばかりの日本シリーズは南海ホークスと読売ジャイアンツ戦になり、ストレートの4勝無敗で南海が優勝した。
その時のピッチャーはアンダースローの杉浦忠が4連投し、長島や王をバッタバッタと倒した。その年杉浦は38勝もしている。さすがに杉浦のこの活躍は長いことは持たなかった。

その杉浦の配球を補佐していたのが野村克也だった。名実共に南海のトップバッター、名捕手で、確か9年間のうち5度に渡ってパリーグのリーグ優勝を果している。打撃も王貞治には及ばなかったが、歴代2位の記録は沢山持っている。王選手がいなかったら日本のトップバッターだった男だ。
攻守にわたってチームを優勝に導く中心的な役割が野村選手だったわけで、子どもの頃の僕にとっては王や長島と比べるべくもなく凄い選手だった。
 

ただ世の中は王や長島の時代で、野球と言えば巨人という、テレビ放送も巨人を中心にしか廻っていなかった。なかなか南海ホークスの試合を見ることも出来ない。
野村がどんなに凄くても、その栄光や実力を知る人は少ない。近年では監督でヤクルトや楽天のような弱小チームを何度も優勝させたり、その手腕が讃えられたりしているが、本来選手としてもの凄い人だったという事を忘れてはならない。
 

野村克也

「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」
これは史上2人目の600号ホームランを達成したときの言葉だが、決して謙遜して行っているのではなく、日が当らなかった悔しさが込められていると思う。本来巨人に、いやセリーグに野村がいたら彼の活躍はもっと表に立っていたろう。晩年、彼のぼやきはそうした屈折感が言わしているような気がする。


本来日の当る方のトッププレイヤーは謙虚である。だからこそ日の当らなかった野村克也は奥さんを含め言いたい放題言うのである。そういう環境に置かれてしまったのだ。
でも僕は忘れていない。彼の采配、打撃センス、その総合的な実力はおそらく日本最高の野球人だったと確信している。

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