でも僕に言わせると大谷は二刀流だから凄いのではない。打っては凄くて、投げては凄い、走っても凄い、それぞれが一流なのであり、全てが揃っているから凄いのでは無い。
元々野球は投げて守って打って走る多元的なスポーツだ。打者もどんなに打撃が良くても守備が下手だと、打点以上に失点が多くなるだろう。そういうスポーツだと思っている。ある時からそれが専門業に分れ、投手は打てなくても良く、打者も守備が悪ければDH等という制度が出来て、より専門色の強いゲームになってしまった。
音楽でも同じだ。元々パフォーマーとは演奏して歌って、そのレパートリーを作詞して作曲して、演技もして振りも付ければ手品もやる。それが元々の音楽家のスタイルだった。でも近代は演奏家、作曲家などと専門化してそれぞれ分れて担当する事が当り前のようになっている。
何でも「専門家」とか「一筋」「一途」と言うと、誰もが一様に納得する。それはそれでカッコイイのだが、それに対して「専門バカ」という面もある。(星飛雄馬などの梶原一騎の主人公を思い浮べてしまうのだが)
例えばレオナルド・ダ・ビンチを始めとする西欧ルネサンス時代の偉人たちは、科学者であり、哲学者であり、発明家であり、芸術家でもあった。単にそれは専門化していないと言うより、例えば一人の女性ならそれを科学的哲学的美術的視点、あらゆる角度からそれを観て表そうとする。それはそんな特別な事では無く、小説家や映画作家だったらSF的心理学的世界のあらゆる事から素材を見つけようとするだろう。それはいくら文章が上手くたって成立つものではない。ありとあらゆるものを取込み専門家並の知識を身に付け、それを掛合わせてドラマが新しい命を持って面白い小節というものが成立する。
あえて自分の事で例えれば、僕はプサルテリー奏者であり、サズ、リュート、サントゥールと、たまに太鼓を叩き歌も歌う。何が専門なんだか自分でもよく解らない。作・編曲家でもあり、たまに作詞もする。PCを使った録音技術も持っている。時間とお金があれば映像作品を手がけてもみたい。全てが素人的で何の専門家でも無い。でも自分は音楽家、またはパフォーマーであり、それら全てを利用し表現する人間なのだ。(と、自分を肯定してしまったが、その所為か僕はどの分野からも一流とは認められていない)
大谷も一人の野球人であり、彼の強靱な腰と野球センスそのものが素晴しいバッティング、素晴しいピッチング、素晴しい走塁を生む。そしてそのマナーの良さ、謙虚さなど尾ひれが付いているようだが、それら全てが彼の哲学であり科学であり、生きる姿なのだ。何度も言うが二刀流だから凄いのでは無い。個としての野球全てを見渡し、生き方を見つめ、その彼のセンスが全てを形作っているのだ。
「専門バカ」についてひとつ言っておきたい事がある。感染症の専門家委員会は、感染さえ防げればあとはどうなろうと構わない、どうも世の中の他が見えてないような気がする。だいたいなんで分科会なんて言葉が出てくるのかと思ってしまう。
お年寄は気をつけなければならないが、これだけ無症状者が多く重傷者が少ないのに(10代以下は殆ど死亡者は出ていない)、インフルエンザより恐ろしい感染症ランクに留めっぱなしで、子どもたちは喧嘩もじゃれ合うことも出来ず、人間性すら失った世代になるだろう。職を失い命を絶つ若者も多い。
異論も多いかもしれないが、専門家たちは少なくとも感染症だけで無く全ての病理学からの視点を持つべきで、感染対策の社会への影響、心理、現象を細部までシュミレーションしなければならない。社会がどういった方向に向っていくのが良いのか?さらにどうなれば人間は幸せになれるのか?そう言った事を複合的に考えられる能力が今は必要とされる。
省庁の縦割社会にしてもそうだ。それぞれの省庁が専門家ぶって横の繋がりを考えないから全てに遅れを取る。
「論語と算盤」では無いが、世の中が専門外の要素を結びつけて新たな芽を生み出す幅広い視野が必要とされる時代なのではないのか?