三島由紀夫氏は生前、NHKのインタビューの中で「人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」つまり「死ぬのも何かのためにということ、これが大義だ」「戦時中、自分が死ぬことを覚悟していた頃は、とても幸福だった」とまで言っています。
僕は自分が音楽を作ったり演奏したりする事を「聴いてくれる人たちのために」「聴いてくれる子どもたちのために」と、以前はそんな大義をたてて音楽家をやっていました。でもそれが本当にそう思っているのか、疑問に思えてくるのです。
本当に誰もが喜んでくれるものを提供するなら、現代の主流や流行りに合わせて何かを作る。それが人のためと言えるでしょう。でもどうもそのような道を歩んでいない。
そもそも音楽にどれだけ世の中を変える力があるのか、東北の震災やウクライナ侵攻のような災害級の事があると、三島氏のように何か決死の覚悟で行動で示したいという欲求に駆られる事があります。
実際に世界の紛争、世界の饑餓,難民への支援、被災地への救済、音楽家である自分がそんなことを少しでも支援し救おうとしても無理があり、挫折感を覚えるばかりで、誤魔化して生きるしかなありません。
僕が何で音楽をやっているかと言えば、正直に言えばそんなことを忘れられるからなのです。
自分の音楽で「人の喜ぶ顔が見たい」と良く言ってしまいますが、本当は人の喜ぶ顔を観た自分が喜んで満足したいのです。人に音楽で何かを伝えたいと思うのは人のためではなく、人に伝わった事で自分の喜びになるからです。それは人とおしゃべりをして楽しい事と同じだと思います。
もっと言えば、自分というリスナーを満足させたいから音楽を作っているのです。
僕の場合、あくまで「自分のために」究極の安らぎを求めて音楽をやっているのです。
三島由紀夫の場合、いくら本を書いてもそれが人にちゃんと伝わっていない、人のために書いているのに人の役に立っていないという感覚が強かったのではと思います。
これだけ本を沢山書いた三島氏が自分のために本を書く事には満足感を得られていないと思うのです。
「自分のためだけに死んでいけるほど強くない」
実はが盾の会を作って腹を切って「日本を護れ!」と人のために立上がった事以上に、三島氏がどれだけ文学で人を救っているか、人のために役立っているか、それを確信できないほど「強くなかった」と思わざるを得ません。
話しの角度を少し変えます。
不登校や自殺の子が出てくる原因はもちろん虐めもありますが、政治や社会や周りを見渡すと、まともな神経だったら現代に生きるのは嫌になってしまいます。
でも僕が音楽のように全てを忘れられる魔法のツールを持てているように、それぞれの子どもたちに役立つアイテムがあるのは間違えないのです。
子どもたちの間に流行るアニメなどで転生ものが多いのは、現実から離れて冒険者になったり、架空の王国を救ったり、非現実の中で人のために生きたり、死を恐れず何かに向っていったりする話しが主流です。だからこそアニメで救われたという人が京アニの事務所に涙を流してお花を手向けに来る。自分の親族すら滅多にお墓参りに行かないような人たちがです。
言い方を変えれば、感受性の高い人間はもの凄いアーティストになるか、何もしない人になるか、どちらかなのです。
マルセル・デュシャンも30代で何も作品を作らなくなり、チェスばかりして余生を過しました。川端康成も書かなくなり、自殺してしまいました。自分を誤魔化せない人はそんな感じだと思います。
「人のために」と思わなければ、芸術家も何もしなくなって酒ばっかり食らっているでしょう。格闘家はトレーニングをサボるようになるでしょう。それほど人間は弱いと三島由紀夫は言いたかったのかも知れません。
現代の日本で、人のために死ねるのは「ヤクザ」の世界に生きる人たちくらいでしょう。自衛隊だって人のために死ねるような組織には出来ていません。
「人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」
いや、僕は自分のためだけに生きぬけば、自分のためだけに強くあろうとすれば、個の可能性を充分に求め続ければ、簡単に死に至る事は出来ない事だと思います。
思えば、この世に生まれると言う事だけでも、一回の受精の何億分の一の確立で生を受けたわけですから、まして宇宙の始りの事から未来の事までを想像できる人間という動物に生まれる確率だけでも、とんでもない分母の桁数となるでしょう。その人間が生を受けている時間なんてあっという間です。その潜在能力の可能性を考えたら、人のために生きるなんて言っている場合ではないような気もします。
僕は人のために優しい心になれる事は良いと思います。生きるためには支え合っていかなければ生きてはいけないから。衝動的に身を挺して盾になってしまう事はあるでしょう。でも自ら人のために命を捨てる事は無いと思います。それは同様に「誇り」「伝統」「国」を大切に思う心はあっても、命を張る事は無いと思っています。
あえて自分のために生きるという事は大変なパワーが要る事だと思います。現実に生きるために色んな事をしなくてはならないし、「人のため」と考える事はとても簡単な結論だと思ってしまいます。ただし自分のためとは何でも自由で我儘を通す事とは意味が違います。
「自分のため」とはとても孤独な世界です。
谷川俊太郎さんの場合は「20億光年の孤独」という、最初から「孤独」をテーマにし、孤独だからこそ万有引力のようにひかれ合う人の心を説いています。
「一人が歌を歌い出すと 声はこだまする・・・・・・自分で考え自分で始める(幸小学校校歌より)」
谷川さんは「さあみんなで何かを成そう」ではなく、個から始りそれが引かれ合って人間社会を成していく、つまり自分のために一生懸命何かをやる事が人を巻きこんでいく、僕はそんな解釈をします。
そうは言っても音楽を作る以上、相手の琴線に触れて欲しい、伝わって欲しい、それが諸刃のように交錯しているのも事実なのです。