日本が世界に誇れるものは幾つかあるだろうが、ファン層の厚さから言えばコミック、アニメなのかも知れない。
そもそもドラマとは何のためにあるのだろう。基本的にドラマはフィクションであり、多くのものは主人公の気持に感情移入し、主人公が成功すれば喜び、失恋すれば心が痛む。つまり自分のもう一つの人生を歩むために別の世界を体験するためと言って良いのかもしれない。僕は勝手にそう思っている。
自分が一流のスパイだったら、戦いで勝利を導く英雄だったら、ゾンビが一斉に襲ってくる状況を戦い抜くとか、結ばれない境遇で心が通じ合わない美女がいるとか、冒険をせざるを得ない状況に直面するとか、そういう今の自分にあり得ないもう一つの人生を疑似体験するのがドラマだと思う。それは小説、映画、テレビドラマ、漫画、アニメ、そう言ったストーリーと主人公のはっきりする世界なら、誰でもその体験の世界に入り込めるだろう。芸術作品や新しい表現はこれとは一線を画するだろう。
特に最近多いのがSFではない日常ドラマの中でのと「異世界転生」、時間が戻る「死に戻り」と言う設定だ。
前者の「異世界転生」は多くの場合、生前うだつの上がらないつまらない人生を歩んでいた人間が不慮の事故などで死んで、地球に似たような別世界で人生をやり直す。現代ほど文明は進んでいないが、大概の設定として魔法が使えてアクティブであり冒険心に満ちた新たな人生が始まる。別世界での生物や人種の出合いも新鮮であり、逆に生前に得た現代の知識が役に立ったりする。ストーリー的には過酷な試練が続いたりするが、何とかそこを生前とは違って真っ向からぶつかって行く。そんなドラマが多い。
もう一つの「死に戻り」は生前大事にしていた人が不運にも死を遂げて、それを回避するために過去に戻り、歴史を塗り替え運命を変えてしまう設定だ。多くの場合大事な人は助かっても、その操作のため別の友人が犠牲になったりと、なかなか思うように塗り替えができない。いくつものパラレルワールドの中から一番良い選択を得ているはずだが、他のパラレルワールドではみんな死んでいるのかなとツッコミたくなる設定でもある。
基本はスリル満点の娯楽作品なのだが、これに救われると言う事は自分の現人生よりは遥かにワクワクしドキドキし、生きていると言う実感が湧く人が多いのだと思わざるを得ない。
今の人生の中でも十分にアクティブに生きて冒険しがいのある人生を送る事は可能なのだが、現実は簡単にはそう言うものを認めてはくれない。ドラマの方がどこか都合の良い優しさがある。
特に宗教的にはなかなか救ってくれない事が判っている現代には、観るだけで救われる免罪符のようなものだ。
こんなものばっかり観て引きこもってばっかりいて困ったもんだと思うより、救いのない社会環境を作り出している我々人間全ての在り方生き方を問わなくてはならないのでは?
既にありとあらゆる音楽情報があり、自分が望めば生れ変わることも可能かもしれない。もし画面の中だけで生きているなら、あまりに自由に行動が出来るため、願望や望み、願い、欲求などがどう存在するのか解らない。つまり時間芸術としてのドラマ制作をAI自体が自ら望まなければ、猿に芸を覚えさせて絵を描かせる行為とそんな差異が無い気がする。
長くなるが、もう少しこの話題を拡げたい。話しがアニメの方に行ってしまい、少しばかり核心からずれた気もする。
なぜなら、ドラマを見てドラマの中のもう一人の自分に感情移入できるのは他の動物には出来ないことだ。他の動物は夢は見るかも知れない。でも自分で想像しながらその世界に埋没したり、ましてやそのドラマそのものを創造あるいは想像することも出来ない。確証はないが出来るならその動物は人類にまで進化したかもしれない。
もう少し言えばドラマは時間を制御する。単発で君が好きだ!敵が来た!腹が減った!冬が来る!などとコミュニケーションを取る事は出来るが、この山の向こうにきっと素敵なものがあり、そこに旅をする過程で何かが起り、やっと出遭えた素敵なものによって自分はこうなるだろう。などと仮にそんな想像があったにしても誰かと共有することはない(と思う)。
人間は言葉という代名詞を使ってものを定義付けて、時間軸たとえば過去、現在、未来を分け、出来事を時系列に順序立てて伝えることが出来る。
凄いのはこの言葉で想像の世界を作り出す話し手と、それを聞いただけで想像で世界を構築することが出来る聴き手が居ることだ。
詩の世界、演劇、舞踏、音楽、映画、テレビドラマ、これらはどんなに頑張っても仮想現実だ。現実ではない。でも想像でもう一つの自分をドラマの中で生きさせることが出来る。ドラマを創り、それを共有し想像できる人間の存在が凄い。
ホモサピエンスは現実以外にも別の世界を持つことの出来る唯一の動物と言って良い。
そして創り手はなぜ常に新しいドラマを作り続けるかと言えばまさに人間の欲望で、千夜一夜のように、毎夕食するディナーのように、毎夜見る夢のように、常に新しい新鮮なドラマを味わい続ける習性が出来上っている。
で、僕自身が解りやすい音楽の話をしたい。
歌のない、つまり歌詞のない音楽、更に言えば表題も解説も映像もない音楽は、創造する側も凄いが、それを聴いてドラマを想像する側の力たるや、想像力に関してだけ言えば創り手を上回っている場合もある(世に言う標題音楽に対して絶対音楽である)。ただ音楽というもの自体の抽象性から言えば創り手と聴き手のイメージは異なっている場合が多いだろう。
元々音楽→音はもちろん言葉より先に存在し、多くの動物も音を発して何かをコミュニケーションすることは出来る。ただ殆どの場合それは瞬間的な音であり、子を失って悲しむツバメの歌は聴けても、時間を操作するドラマには至らない。
実はこの歌のない、無題の絶対音楽は聴く側によほどの想像力がないと、最初のテーマのメロディと響きの良さを味わったところで、しばらく経つと退屈な時間が続くことになる。
良く言われる例としてベートーヴェンの交響曲第7番が挙げられる。この曲は僕なんかはベトちゃんの中では最も好きなのだが、英雄や運命、田園のような表題曲ほど人気がない。指揮者で元オーボエ奏者の茂木大輔氏も自身の本の中で「名曲なのに日本では表題がないから人気がない」と言い、自身の監修のドラマ「のだめカンタービレ」ではテーマ音楽に抜擢している。こうでもしない限り日本では日の目を見なかった曲だろう。
作家の小林秀雄氏も確か「音楽なんて一部の専門家にしか解らん」みたいなことを書いてたと記憶している。そのあとどうフォローしたのかは忘れたが、そう言いたくなる気持も解らなくはない。
でも先入観もなく、興味津々で聴く子どもなどにどんな曲でも聴きながら絵を描かせてみると、素晴しいドラマチックな絵を描く。バッハでもラベルでもウェーベルンでも素晴しいものを書くだろう。これは単に音楽を映像化する思考回路がないだけで、大人でも絵を描いてみると素晴しいドラマ的なものを書くと思う。音楽の想像力は多くは映像化だ。ドラマと要ってもストーリーも具体性も何もなくて良い、色の羅列かもしれない。そんなんでも良い。ソナタ形式が解っていなくても、良い音の響きの連続と捉えても、とにかく風景などを想像することから始めれば、どんな音楽でも身体の中に浸透していく。。
僕ら創り手は若干でもそう言った要素は持っていないと提供した際に聴く者が風景やドラマを感じてくれない。ある程度壮大な想像力で描いた架空の絵がないと、聴き手は絵を創造してくれない。その想像の絵は今まで体験したことのない別次元の新鮮な世界であればあるほど、聴き手は自分が体験しなかった別の人生、別の世界を味わうことが出来る。
最後に、果してAIに創り手の作業を担うことが出来るか?聴き手として成立ちうるのか、僕の見解を答えておきたい。
結論から言えば可能だと思う。まあ現代音楽でも無為自然を表したいために、乱数表で曲を書いたり、サイコロを振って曲を作ったりする。世界の自然建造物だって(例えば海底火山や星のきらめきなど)意図も作為もないものを美しく思うのと同じだ。ただそういうものに美を感じても時間的なドラマを創ることが出来るのだろうか?
ドラマはあくまで現世では飽き足らない、別世界を構築することに喜びを感じる世界だ。聴き手もそれは同じだ。
AIが感情を持ち、自分とは別の世界に感情移入したいなら解るが、そんなことをする必要があるのかどうかの問題だ。どこまでが自分なのかという問題も含めて。