Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

2026/05

政治の話をすると無視される風潮があると思う。友人同士でも家庭内でもSNSでも、普通にしていれば良いのに、音楽だけやっていれば良いのに、面と向かって言われないが、暗に言われてる様な気がしてならない。
中学3年の頃、社会科の先生=おばあちゃん先生がかなりな左寄りの意見を授業中に言っていて、普段あまり意見など言わない僕はこの時ばかりは「授業で政治の話を持ち込むのは良くないと思います」と言って、先生を泣かせてしまった事がある。中立性を持たせたいと思ったんだろうけど、今思えば僕は間違っていたかもしれない。
例の辺野古の問題にしても、中立性を問題にしているが、ただ中立性だけを言うなら黙っている事が中立なのか。こっちはこう思っているけれど、あっちはこう言う考えがあって、どちらも大事だね、って収めるのが中立性なのか?
僕はあの高校の先生に中立性を求めるのではなく、なぜ当時思っていた反対意見を言わなかったのか、なぜ議論の場にしなかったのか。おそらく当時の僕は先生の意見に同調はしていても、押し付けられたことに対する不満があっただけだと思う。それが中立性公平性を求めただけで終わってしまい、泣かせてしまったことを未だに後悔している。
僕はTVで「サンデーモーニング」も、「そこまで言って委員会」も観ているが、この二つの番組こそ左右に分れていて、双方の立場で中立性を欠いている。出演者を両方が半分づつ分け合って議論を戦わせれば良いと思うのだが、結論の出ない問題を無理やりまとめてしまう傾向にある。
僕の立場を言っておこう。今の僕は人からお花畑と言われようと、軍拡や軍事費を上げることも、武器輸出も反対だ。それは音楽をやっている自分のわがままかも知れない、とも思う時もある。戦争が近づけば活動は出来ない。
これは音楽家だけでなく、吉永小百合、坂本龍一、宮崎駿などをはじめとする著名人、多くの役者、映画監督、舞踏家、画家、宗教家、その他の表現者含めて同じだと思う。なぜなら表現者は全ては心の問題で解決できるからと思っているからだ。
平和でありたい、戦争をしたくない。こんなことは平和教育をしなくても、ちょっと歴史を知っている現代人なら戦争のリスクは誰でも思ってる事だ。率先して戦争をしたがっている人は兵器製造に携わる人たち以外にはそんなに多くはない。
今の日本の基点を大雑把に言えば、戦争を仕掛けられないために軍備を拡大させる(相手に脅威を与える)派と、外交や友好という心の問題で解決し(相手を安心させる)軍備を縮小させる派に分けられる。どちらも平和な暮らし、戦争のない世界を求めているには変わりないだけに、平和を論じるだけでは解決しない。その議論の焦点をはっきりさせ、解決策を見出すしか生き残る道は無いと言って過言ではない。焦点のはっきりしない論争は戦争に近く、益がない。
これは物価、生活、全てに関わってくる事だ。暮らしやすい世でなければ、僕は音楽なんぞやってられない。
だから政治発言は中立的な客観視にならないで、見守るだけで無く、同調も欲しいが反対意見も欲しい。人間は数だけの個性と考え方があるはずだから、それが何かを考える糧となるだろう。
自分を含めて中立が為に思考停止してしまう事が恐ろしい。


P.S.
僕はもちろん護憲派だけど、変えることで平和をもたらすと考えている人も多いと思う。
銃をちらつかせてこの国に手を出す事がヤバイと思わせるのが、この国が攻められない方法と考えている人が改憲派だが、これを論破しない限り押し切られる可能性が高いのも事実だ。家族を襲う強盗を取り押さえるのに武器を使わないのかと言われれば、いざとなれば使うでしょう。でもどうしたら強盗を生まない世界が出来るか、考える必要があると思う。

谷川俊太郎さんは、死後の世界に旅に出るのがとても楽しみだと言っていた。僕もあとどんなに長くても30年程で、その仲間入りをしていくと思う。
死ぬ事で何が負担かと言えば、まだまだやり残した事は終わりそうにないと言う事と、周りが悲しむ事だ。
死後、魂はどこに行くのか、そもそも魂はどこから来たのか、これほどの謎はないだろう。
調べているうちに、最近知った情報の中で一番納得のいくものが見つかった。それはニコラテスラの生死観だ。

ニコラテスラ
テスラと言えば米国産の車で名が知れているが、エジソンのライバルの様な存在で、電気の交流システム(エジソンは直流)、モーター、蛍光灯、X線、コイル、無線やリモコン、フリーエネルギー、殺人光線、等等等、発明の多様性は発明王と呼ばれるエジソンの比ではないと思っている。しかもその興味は留まるところを知らず、物理学者、化学者、思想家、神秘家、であり、テスラのイメージはマッドサイエンテスト的なイメージから、特定の宗教の教祖のような顔も見せる。
テスラは特許や金銭に関して殆ど関心のないのではと思われる、貧乏でなかなか世間に認められない人生だった。(ここもエジソンとは対照的だ。)人生だけでなく、その大量破壊兵器や殺人光線の着手、薔薇十字団の参加、不信な死因、それだけ謎が多い。自伝も書いていない、全て頭の中の出来事で、伝説もたくさん生れている。
ニコラテスラ2
彼が「すべては光である」という言葉は有名である。また宇宙を調和するものとして重視したものに「3・6・9」という数字の法則がある。これらの数字はエネルギー、周波数、振動の素であり、自然界のパターンや神聖幾何学において全てを表すという考えを持っているようだ。
ここで僕が思いだすのはピタゴラスだ。ピタゴラスの重視する数とは違うが、また宇宙を調和するものが数であることは同じだ。またピタゴラスは周波数、振動により音律、音階を提唱し、現代の「ドレミファ」につながるピタゴラス音律を生んでいる。正確に言えばこの音階は自然の法則から発明でも発見でもないと言える。

ピタゴラス
要するにテスラもピタゴラスも、数、つまり宇宙は光に代表される波形、振動、それが宇宙を埋め尽しているイメージがある。(フランスの物理学者ルイ・ド・ブロイは、すべての物質が波長を持つという仮説を提唱したと言う。)
これはこちらの想像がかなり入ってくるが、宇宙は巨大なサーバーで出来ていて、人間のような生物は端末の様なものだ。ほぼピュアな状態で端末に送られてくるデータは知識や体験、自我を確立し、創造したり、個性を持った端末に学習して育つ。端末が壊れるとそのデータは元のサーバーに帰っていく(残っていく)。それを栄養にしてサーバーは進化していく。
重要なのは宇宙は数で出来ているとは言えど、無味乾燥な基盤の配列で出来ているわけでも、0と1が並ぶ回路が並んでいるわけではない。それは音楽の波形はレコードの溝と同じ、見た目は波の図柄でしかないけれど、音楽と同じ調和を目指すものだ。つまり我々は音楽の世界からやってきて、音楽の世界に帰っていく。端末で得た情報と経験と創造物が宇宙の進化に影響を及しているに違いない。それは光の音楽かもしれないし、我々の知っている範疇の音楽ではないかも知れない。
我々が死んでからは音楽の世界で生きて行くのかと思えば、死ぬことは楽しみでもある。音楽家ではなくても、人生を存分に奏でることが出来れば、その功績が宇宙の形成に少しでも影響を与えられると思えば、短い人生、生きた甲斐があるというものでは無いか?
(あくまで私感で、テスラは死後に音楽の世界に行くとは言っていません)

5月5日は谷川俊太郎さんを思い出す日。
ロバの音楽座に居たお陰で、打ち上げで俊太郎さんと何度も会話をする機会が持てた。自分の曲を聴いてもらう機会もあった。許可を得て詩に曲を付けさせてももらった。とにかく俊太郎さんの詩は曲にするのは難しい。なぜなら言葉だけでミクロの世界から宇宙の果てまで表現していて、あえて音を付ける必要がない詩がほとんどだと感じる。
1次元である言葉が何重構造にも重なって、おそらく5次元を超えるほどの世界を作り出す。それは一見魔法のようだが、禅で言う「空」、つまり空っぽのなせる技だと思う。何にでも変身できる。何にもとらわれずあるがままを言葉にする事で、読み手は作為を感じないですんなり引き込まれてしまう。でもそこに血を通わせているのは、他でもない俊太郎さんの人柄なんだと思う。
自分の死すら興味の対象としている詩人は、今何をしているのだろう。僕はリアルタイムで話すのは得意じゃあないから、今の俊太郎さんと文通をしてみたいと思う5月5日であります。
(↓最近やっと見つけた、下記の2017年に作曲した「かぼちゃごよみ」の「六月」の詩のデモ音源です。ぜひ聴いてください)

https://magi.o.oo7.jp/nasunogahara/amadare.mp3

以下、2017年の投稿です。

5/5に谷川俊太郎と賢作さんをロバハウスに迎え「ことばとあそぶ おととあそぶ」を開催しました。

谷川さんとの今年のジョイントメインは絵:川原田 徹, 詩:谷川 俊太郎の絵本「かぼちゃごよみ」を素材に、プロジェクタ投影して俊太郎さんが詩を読み、ロバと賢作さんが交互に演奏しました。 

川原田氏は北九州市門司の出身で、ブリューゲルやボッシュに影響を受けた強烈な画素材を鏤め、門司の昔の風景をさらに超現実的に変えていく様な不可思議な絵が展開されます。1月から12月までの十二枚の絵に谷川さんがその絵に則したり則さなかったりして詩を書いています。 

今回の企画が決る前に、僕は既に六月の詩に曲を付けていました。 

あまだれは おなじおと 
むかしもいまも おなじおと 
あまだれは おなじおと 
あのまちもこのむらも おなじおと 
おもいだせそうで おもいだせないおもいでのように 
かさでかおをかくして あるいてくるのは 
だれ? 

<谷川俊太郎>「かぼちゃごよみ」より 

本来、淡々とした情景を歌ったものと感じるものかも知れませんが、僕の解釈は違いました。 
まず、普通なら「雨だれはあんな音、こんな音、色んな音が聞えていいね」と来そうな所ですが、あえて「同じ音」としたのには訳がありそうでした。 

ひょっとしたら雨だれは、人間一人ひとりの事を指しているのかも知れない。雨だれがが音を発する事は人間の営みであり、それは如何に文明が変ろうとも、昔も今も、アフリカも中国も、金持も学歴も、基本的に変らない。極端に言えば人間も動物も生き方が大きく変るわけではない。より「不変」「永劫」を表しているのではと思いました。 
確かに原子レベルで考えれば全てのものは原子核と電子の組合わせで出来ています。組合わせが違うから違うもののように見えて、実は全ては同じもので出来ています。 

ヒンズーの教えに「梵我一如」というのがあり、宇宙と個人は同一のもので、自分と他は区別がなく、宇宙全体でひとつの生命という素敵な考え方です。 
手塚治虫の「ブッダ」では、乳粥をくれたスジャータが死にそうになり魂の輪の中に入ってしまうのですが、ブッダが神様にスジャータの魂を返して欲しいというと、 
「その辺の好きな魂を持って帰りなさい。どれも同じようなもんじゃ」 
と言って生返らせるというシーンがあります。 
これは史実とは全く関係ないフィクションですが、端的に梵我一如を表していると思います。 

また鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」に近いのような気がします。生れては消え生れてはまた消える人の生と営み。ただここに出てくる「不変」は「無常」と対を成し、谷川さんの詩ではざっくりと「無常」は省略されています。 
心はあまだれのようにひとつの雲から生れて、その落ちた環境によってそれぞれの道を歩みますが、元は同じものです。 

そうなると「思い出せない思い出」というものも他の人と共有しているものかも知れません。夕日を見るとなぜか懐かしさを感じたり、山を見れば晴晴れとした気持になる。人は大きく捉えれば君は僕で、僕は皆だ。 
歩いてくるのはよく見たら自分かもしれない。 

実は打上げの時にこの話をしたかったのですが、まとめないとなかなか正確に伝えにくいので、いずれ文章で聞いてみたいと思います。きっと全然違っているんだと思います。でも僕がそう捉えたのも事実であり、同じものを観ていても幾つもの世界が見える。 
素晴しい詩はそんな許容量を持っているような気がします。 

この詩に曲を付けるのにその同じ構成要素を見方によって違う情景に見えるよう、小節単位でどこからでも出入り可能な無限カノンを作ってみました。伴奏は一小節のみのオスティナートが永遠に繰返されます。 

(写真は桧垣康彦氏撮影) 
かぼちゃごよみ

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