自然の中で音に耳をすます。音を探す。木や鳥たちと音で会話する。
そもそもこんなにアウトドアから縁遠い僕みたいな人間が、ミュージックキャンプなどと言うものをよくも参加し続けてきたことと思う。個人的な事を言えば子どもと話題を共有することはとても苦手で、10分と相手をしてあげる事も出来ない。そんなことを思いながら、ロバの音楽座も含め、40年以上この活動に関わってきた訳だ。
音楽は教えるものではないと思っている。これはロバの学校を始めた頃と変っていない。教えないが、音楽を楽しめる、わくわくさせる、まだ聴いたことの無いような音の世界を体験させる、音楽やクリエィティブな作業をを無性にしたくなる。そんな環境を作る事くらいなら出来る。ただそんな出合いの場を作りたい。主宰のがりゅうさんはもっと先の展望を見据えているだろうが、僕にとってはそれだけが精一杯なのだろう。
子どもは元々生れながらにして音楽家だ。無心で歌う子どもの歌は何者も敵わない。何も表現していないのに涙が出てくる。そのままでいてほしい。そんな子どもたちに刺激を与えるのは複雑だ。けれど放っておけば人目を気にし、一般的な子どもの集団の中に埋れてしまう。素晴しい個性が溢れている子どもも、ただの何処にでもいる大人になってしまう。それはそれで仕方のないことかも知れないが、大人になって様々な夢や興味から離れて行ってしまう事に何か空しさを感じる人が居るに違いないと思ってしまう。
禅の世界では「悟り」を求めるのに「赤子の心になれ」と良く言われる。結局人間は赤ん坊から大人になる過程で、社会や生きて行く中で、様々な余計なものを背負わなければならない。禅ではわざわざ大人になるために背負ったものを無にしろという。
音楽も似たところがある。
技術を学び、経験を積み、理論を学び、評価を受け、研ぎ澄まされた域に達すると、どこかに大事なものを忘れてきている。音を見つけることに喜び、声に出すことに喜び、音を発することに喜び、それに対して大事な事だとか、何かの為になるとか、意味をもたらさない事にこそ大きなフトコロがあり、全てを受入れてくれる。心の中になるもの、夢や生きがいなんてとても単純で、空っぽの中に描いた一つの線のようなもかもしれない。それは教えられないもので、自然の中に自由であって、それぞれが感じて悟るようなものかも知れない。
まあ、自転車を乗れるようになる時のように、最初はサポートやきっかけが必要かも知れない。でもそこから先は見よう見まねで覚えていくし、発見もしていく。ギターやパソコンを手にした青年が、教わらずとも勝手に音楽を作って行くのを見れば解るだろう。
ロバの学校は子どもたちに楽器づくり以外、ほとんど技術的なことは教えてはいない。ただただ「それでいいんだよ」「そのままでいいんだよ」と背中を後押ししているに過ぎないかも知れない。
この子どもたちから発する歓声は、様々な束縛から解き放たれた喜びの声なのかもしれない。
ロバの学校の最後の夜に行われる「ガランピー蔡」、それはそれぞれの参加者がここに何かしらの美しさを感じ、無心に声を出し、動き、確実に心を一つにして何かに向っている。その目的、意味はたくさんの言葉を使って後付できるかもしれないが、この読書の森でのロバの学校という素敵な空っぽの器が、その全てを受入れているからかも知れない。

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