Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

カテゴリ: 雑感

谷川俊太郎さんのお別れの会に招待され、行ってきました。
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(まず驚いたのは、遺影の写真はロバハウスで撮ったものです。)

帝国ホテル富士の間で、ロバからはもちろんがりゅうさんも招待されていました。
千人入る富士の間にかなりの人がごった返しでした。
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詩人のお別れの会らしく、スピーチに詩を読む人も多く、特にお孫さんの(92年生まれの)最も大事な谷川さんの詩、初めて孫ができた時、その子がお婆さんになるまでを見据えた詩の朗読には涙を誘いました。
最後は録音された谷川さんの読む「さよならは仮の言葉」、そして最後はやはり「二十億光年の孤独」、これに賢作さんのピアノが入り、本当に俊太郎さんが宇宙に旅立って行く光景が見えた様でした。
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何よりなのは、遺影の写真を始め、スライドに映し出された多くの写真はロバハウスでの写真や、ロバハウスライブの時の写真がかなり多かったです。
遺影を含め、いつも谷川さんの写真を撮っている深堀瑞穂さんと話しましたが、ロバとのひと時が一番リラックスしていたと言っていました。打ち上げの時も僕らが肩肘張って話す芸術論も、面白がって楽しそうに見ていたとの事でした。

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ハーディガーディを弾く俊太郎さん
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ロバハウスライブにて
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ロバハウスライブにて
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賢作さんとがりゅうさん

ロバと関わった事で谷川さんと関われた事は、僕にとって宝の様な出来事でした。死についても「ちょっと怖いけど楽しみ」と言うほど、物の見方、想像力の巨人だと思います。ある意味、お坊さんの説法以上に色々考えされられたり、新しい発見を気付かされたり、その辺りが誰からも愛される所だと思います。

話は60年前に遡る。日曜日の夕方6時から「てなもんや三度笠」という人気番組があった。藤田まことの「あたり前田のクラッカー」で有名だが、地図好きの小学校3年生くらいの僕はこの「東海道五三次」にとても興味があった。ちょうど一年が52〜53週あるので、番組としては一年で完結するようになっている。一話に一宿場、確かその土地土地の名産品が現れ、その地の特徴をちゃんと話題に盛りこんでいた。
ちょうどそれを観ていたとき、親父が広重の五十三次の何枚かの絵のプリントを僕にくれた。新聞のオマケかなんかだったと思う。それと重ねて持っていた宿場の絵の箇所になると、番組のドタバタとは別なところでワクワクしてその回を迎えて観ていた。
特によく覚えているのは庄野の雨の絵、由比ヶ浜、興津、亀山の雪、これが版画で作られているなんて随分後になって知ったのだが、とにかく浮世絵は心が落ち着く美しいものだとと思わされた。

この広重の五十三次が司馬江漢の絵を元にしたと言う説があると言う話を、贋作師を主人公とした漫画で読んだ事があった。
司馬江漢と言えばみなもとたろうの「風雲児たち」に登場する、源内の弟子だが性格が悪く暗い、ペテン師、偏屈オヤジと言う印象しかなかったが、絵を見るとなるほどただものではない。源内の流れを汲む遠近法を使った西洋画だが、その風情、味わい、逆に西洋画にはない独特のものだと思う。やはり源内譲りの本草学をベースにしているので動植物の描き方が本物に忠実だ。これはのちの牧野富太郎博士に通じるものなんだろう。
因みに江漢はあの頃に既に地動説を唱え、日本で最初にエッチングを始め、前回取り上げたマルチクリエーターの一人だと思う。
この広重の元絵が司馬江漢と言う説を唱えたのは次の本が最初らしい。
對中 如雲著、「広重東海道五十三次の秘密: 新発見、その元絵は司馬江漢だった 」と言う長いタイトルだが、当然広重ファンから強烈な批判を受けたらしい。中には司馬江漢の絵自体が贋作だと言い出す人もいる。

広重東海道五十三次の秘密
時列で言えば司馬江漢は広重より半世紀前の人であり、司馬江漢が東海道五十三次を書いてから30年くらい経って広重が東海道五十三次を描いている。しかも広重は江戸から出た事がないと言う話は有名だ。明治になってから司馬江漢を名乗って広重が真似たと仕組んだと言う説もあるが、だったら広重の贋作を作った方が割りに合う。こんな似た様で違う精密な絵をわざわざ仕込むようなフェイク画を作っても、この時代に多量の再生数で稼げる訳でもない。
自然に考えて広重は江漢の絵を元に描いたのだと思う。


庄野
ただ、絵としての風合い、配色、面白さ、これは優劣がつけ難い。つまり僕流に言わせて貰えば、洋楽器と和楽器の違いだと思う。確かに構図は江漢を真似たものかも知れないが、当時は構図を真似ることはそこまで問題にされなかったと思う。写真のない時代、広重としては観たことのない情景を頼る事が自然であったろうし、空想で情景を描くわけにはいかなかったと思う。
あまり絵画は比べるものではないが、江漢の絵も素晴らしいが、広重の拘る部分はちゃんと前面に出て来ているし、60年前に感じた素晴らしい何かは広重の中にはっきりと見出せる。
四日市

音楽で言えば、ビゼーは歌劇「カルメン」を作る際にスペインには足を踏み入れたことはなく、図書館や友人の情報でスペイン音楽を調べ、あの超大作オペラを作った。有名なハバネラは完全にスペインの作曲家の盗作騒ぎになり、ビゼーのスコアの中に「Imitated from a Spanish Song」という注釈が付いている。
ビゼーの場合は歌手が原曲を歌いたがらなかったという事情があったのだが、それはさておき、音楽の模倣や盗作という概念も難しい。
確かにメロディは音楽の中心のアウトラインだ。ある人が作曲したメロディを真似するのは著作権の問題だけでなく許されないが、そのメロディの出どころさえハッキリすればカバーやアレンジしたことで料理の仕方に個性があれば問題はないし売れもする。まあ、著作権料は作曲者にしか行かないが。
しかし絵の場合は模写となり、価値は本物と比べようがないが、本物と見間違える程のものほど称賛される。似てないものは下手と言われる。それは音楽では似ていればいるほど、モノマネという事になる。
同じモチーフを使って違う描き方をするなんて事があったって良いではないか。ビートルズの歌をカーペンターズが歌えば、よりその素材の料理の仕方が妙となる。
広重は構図が江漢を元にしていたとしても、その料理の仕方が実に巧みだと思う。真似をしたと言うよりはその素材を元に広重流にアレンジ、もしくはカバーしたと言う方が正しいだろう。

桑名
比べてみれば江漢の五十三次ぎは新鮮ではあるが、60年前の僕が観て、そこまで気に入ったかどうかはわからない。江漢の方がある意味写真の様に正確さがあるが、広重の方はデフォルメがあり、可笑しみがあり、人間味がある。
良い素材は、真似たとか、盗作したとか言う次元ではなく、良くなるんであればどんどんバージョンアップしていけば良いと思う。この時邪魔になるのは著作権なのだが、それに関して自分も協会に入っている身なので何も言えない。

因みにこの記事をFaceBookに投稿したら、作曲料後輩の荒井君から水木しげる先生の『妖怪道五十三次』の存在を教えてもらった。
これこそ見事なカバーですね。水木しげるは53枚全部描いた様です。
妖怪四日市
妖怪庄野

大河ドラマは久々に江戸の中期が舞台になったが、主役ではないが初回からよく登場する平賀源内はこの時代の最も興味のある人物だ。

源内
この博物学に長け、蘭学に長け、絵画はハンパない洞察を持ち、小説を書かせれば面白い、発明とは言えないがエレキテルのようなものを作ってしまうし、コピーライターや企画者としては至る所に現代まで残るものを考案するマルチクリエーター的な存在は、万能の天才=レオナルド・ダ・ビンチを彷彿させる。
エレキテル

ルネサンスにはダ・ビンチ以外に、ミケランジェロ、デュラー、マキャベリみたいなマルチな才能を持つ人間は多く居たが、日本でも源内まで有名ではないが源内を超えるとまでいわれる柳沢 淇園(やなぎさわ きえん)通称=柳里恭という人物もいる。博学にして多芸多才であり武芸百般に通じて、文武・諸芸に優れ、篆刻・煎茶・琴・笛・三味線・医術・仏教など、武は剣術・槍術・弓術・馬術・指揮法までこなし、人の師なったのは16項目もあったとされていたらしい。
室町時代の水墨画家である能阿弥も連歌師、表具師、鑑定家でもありマルチな才能の持ち主で、座敷飾り、茶道、華道、香道など日本文化の礎となっており、彼がいなかったら千利休もいなかったかもしれないとまで言われている。
その昔は安倍晴明や空海もマルチクリエーターと言えるだろうし、現代では戯曲、演技、ダンス、音楽、映画までほぼ一人の発想で作り上げたチャップリンは個人的には最も尊敬する。
現代においてこう言ったマルチ人間は少なくなった。分業化が進み専門家は持て囃されるが、2足以上ののわらじを履くような人は大成が難しい。野球界だって大谷のような「投げる」「打つ」「走る」全てが一流なマルチプレイヤーをなかなか認めてこなかった。現代ではどちらかと言えば頑なな職人気質の方がどうしても上で、梶原一騎の原作のように○○一筋というのが、近代の美学のようだ。
音楽界は多くの場合作曲家、作詞家、編曲家、歌手、演奏家は大概の場合別々だ。音楽業界はこれにプロデュース、録音、映像、デザイン、配信など色んな要素が加わる。
それでも最近の音楽業界の変化は、ミュージシャンがこれらを一人でこなす、いや、こなさざるを得ない事が多くなった。無名のミュージシャンが売れるためにはPCを使いこなし、一台で曲づくりから録音、配信までそれらを全て一人でやるところから始めてプロミュージシャンになっていくスタイルが多い。米津 玄師、ADO、YOASOBI、Mrs. GREEN APPLE.挙げればキリが無い。PC=パーソナルコンピューターはそういった意味で時代を変えた。
衆鱗図
自分もマルチな音楽家だと思う。音楽をやっていれば色んな楽器を触りたくなる。曲を作ってみたくなればそれを録音して自分の好みのミキシングで人に聴かせたいと思う。映像付きなら尚更面白い。結局、人間の興味は次から次へと数珠繋ぎのように尽きることがない。自分がもう少し売れっ子であれば好きなだけ金をかけ、時間をかけ、ジャンルやカテゴリーに拘らない、一人で自由なものを生みだしていたかも知れない。
でも結局、平賀源内も自由に色んな事をやりたいがそのための金はなく、逆に借金に追われ、帰って不自由になり凶運にも見舞われ、その焦りと不安定な精神から人を殺めてしまう。
悲しいかな、源内の場合は殆どの業績が中途半端な形でしか残せなかった。何枚かの絵と戯曲、そして「土用の鰻」くらいかもしれない。源内がもし現代のPCを一台持っていたら、あらゆる情報をストックし、大量の研究資料も作品も自己流で配信し、日本の産業や方向性も大きく変えていったに違いない。それでも彼のイノベートな生き様が江戸人に与えた影響は大きかったと思う。
あれだけ発明好きで様々な分野で新しいものを作ってきた日本人は、現代ではイノベーション指数が世界で13位というくらいに落ちた。これから日本を救う人間は源内のようなマルチな興味と視点を持った人間をサポートして行くことが大事だと思うのだが。

司馬江漢
源内が秋田藩に西洋画を教え、そこで学んだ小田野直武が司馬江漢に西洋画を教え、
おそらく西洋画をほとんど観ていない司馬江漢にこんな絵が描けた。

聞いた話しでは落語にまで影響を及ぼしていたらしい。
讃岐の出だけれど、常に源内を描くドラマは江戸出身であるが如くの口調で話しているのが可笑しい。
逆に江戸の粋な風情とは源内から始まって、それがいつからか定着してしまったかも知れない、とは飛躍し過ぎか?

息子・琴久は誰に似たのか、酒飲みだ。
非常に過酷な教員という仕事の最中、唯一心の癒しとなっているのが、温泉と酒らしい。
知らない街でも居酒屋を開拓し、店やお客と意気投合し、2軒目や3軒目に行くことも良くあることらしい。
温泉事情、居酒屋事情は本を書けるほど詳しいが、本人はそれで何かを残す気はないらしい。
半年ほど前に琴久が、
「西荻にお気に入りの店があるんだ。今度行こうよ」と珍しく僕を誘った。
西荻は大学を出て程なく住んだ場所だ。45年も前で、古楽器など、ほとんど知らない頃だ。
西荻に住むことで、ようやく電話番号が「03」になると喜んでいたが、(音楽業界と関係を持つなら「03」の電話番号を持っていないとと良く言われていた。)実際には100メートルほど都内から外れて武蔵野市だった。結局電話番号は「042」のままだった。
「中華なんだけど、豚足やビーフンが美味いんだ。」
「まてよ、西荻で豚足と言えば、あの台湾料理屋か?」
「ええっ、知っているの?」
知っているも何も、45年前、ここに2日に一回は通った常連だった。店がまだ健在だとは思ってもみなかった。
まさか息子と2代に渡って同じ店を見つけて、共有出来るとは夢にも思っていなかった。

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琴久とはなかなか都合が付かず、8月のある日、ようやく45年ぶりの台湾料理・珍味亭に再会した。
先代の親父さんは(当時から歳を取っていたが)流石に亡くなっていたが、その息子と孫が珍味亭の味を守りつつ頑張っていた。息子は恐らく僕より年上で、当時は眼鏡をかけ今の孫そっくりの顔だった。

珍味亭親子
料理はほとんどが特製のタレに漬込んだ豚肉の様々な部位が中心だ。まず生にんにくの入った醤油が小皿に出される。ほとんどものをこれにつけて食べる。豚足は特に有名で、店の前のデッカい寸胴鍋にゴロゴロ入っている。日本の光景とは思えない、千と千尋の親が豚になってしまうあの店のイメージが近い。耳、頭、タン、胃袋、子袋、尾、卵、などが同じタレで煮込まれている。特に尾が美味い。火を使う料理は木耳肉炒、焼米粉と汁料理のみで焼米粉の注文が入ると店内が大蒜と油の煙で満たされてしまう。琴久は一番気に入ったようだ。ここの味は日本広しと言えど、ここにしかない。

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残念なのは当時行けば必ず飲んでいた台湾パイカル(白乾児)が15年前に生産中止となったことだ。これは中国の60度近くあるパイカルとは違い、35度くらいの飲みやすくすっきりとしたパイカルだ。昔を懐かしみこれを求めて来て残念がるお客も多いとのことだ。あと当時の親父が作っていた腸詰もなくなっていた。昔はガス台の上に何本もの腸詰が垂下がっていた。
パイカルの替りに孔府家酒というのがあったが、度数が強く中国のマオタイ(茅台酒)に近い味だが、結構きつく感じ、琴久も相当これには苦戦したようだ。台湾紹興酒がこの日は最も飲みやすく美味しく感じた。ここの全ての料理に合う。

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西荻南口の界隈は店は多少変ったが、昔の風情は保ったままで、それが良い。琴久のお陰で再びここに来て、店の大将も親子二代でと昔のような会話をし、こちらも親子二代でやって来て、昔のように知らない隣の親父と会話も盛上がり、何か感慨深いものがあった。世の中も自分も随分と変化したようだけれど、故郷を持たない僕にとってこれほど故郷を感じたことはない。
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ちまたでは何でもかんでもAIという言葉が氾濫している。
まあ、その機能自体は凄いことは解るが、何を持ってAIとしているのか解らない。
AI 内蔵アプリ、AI 内蔵PC、AI 機能付テレビ、生成AI動画、今やどうもAIと名が付かないと売れないらしい。
調べてみても、どうやら確立したAIの定義は無いようだ。自社の製品がAIだと言えばそれはAIなのだろう。メカニズムが公開されていないだろうから、評価の付けようが無い。今のことろプログラム自体が自分で判断して、それを処理能力の速さでさも自分で考えた如く形にする所が脅威なんだろう。

ついに僕が良く使うPhotshopにも生成機能が付いた。なるほど、確かに言葉にした内容をあっという間に鮮やかな色彩で構図のしっかりした鮮明な画像を提供してくれる。プロフィール写真の味気ない背景を森の中に変えたりしてくれる。使い方によってはなかなか便利な機能だ。ただこれは本当にPCが自分で考えたのだろうか?僕が見る限りでは学習機能の進化系にしか見えないところが多い。

現在の漢字変換は優れていて、変換の確立の多いものを第一候補に挙げるだけではなく、流行語や話題のキーワードもいち早く取り入れ候補の上位になる。今のAIはその判断が瞬時であり、人に判断させないで最初から候補を決めて提示する傾向がある。膨大な情報量の中から一番ヒットする可能性のあるものを選び出し答えとする。果たしてこれは知能なんだろうか?

Photshopの生成機能で「平安時代の和歌を読む美しい女性」なんて入力すると、どう観ても西洋風の女子高生がコスプレをしてる様な画像しか出てこない。Photshopを作った西洋人の視点で集めた情報の範疇でそれ以上のものはそこには無い。逆に情報を持たない異邦人が想像で絵を描いたらとてつもなく不思議な創造物を描くに違いない。
「見たことない様な不思議な生物」と入力するとどこかの三流SF映画に出てきそうな、確実に見たことのある映像が出て来る。実際、普通の人が考えてもそんな発想しか浮かばないだろうが、広大な情報と高度な処理能力を持つPCが、芸術家を超えてもおかしくはないだろう。
今のところAIは極度に進化した学習機能を持ったプログラムなのではと想像がつく。僕が期待するのは人間を遥かに超えた新人類としてのAIの誕生だ。AIに仕事を奪われるとか、そう言うケチくさい話ではない。如何に新人類と共存できるか、如何に心を通わせることができるか、そして如何に住みやすい地球を互いに作り上げて行くかだ。それはきっとアーサー.C.クラークのSFに出て来る様な人間の人智を超え限りなく進化した、何億年と生き抜き宇宙人の様な存在だ。

もしすでにそんな人工知能が新たな自己進化形成や発想力を持っているなら、世界のあらゆる紛争を解決する方法が見つかって、それらが実行されて、今よりはるかに平和な時代が訪れているだろう。環境問題、人種問題、貧困問題、食糧問題、ありとあらゆる方向から世界を良くなる様に力を貸してもらわないと、この様なロボット産業は単なるお金儲けで終わってしまう。
僕らの時代にとって人工知能と言えば鉄腕アトムだった。おそらく何十年後には自分で考え、自分で行動するロボットの様な存在が生まれて来るだろう。音楽だって敵わないほどの素敵な曲を作ってヒットするかも知れない。それはそれで良いと思う。優れた才能が出て来るのはAIでも人でも同じことで、僕が音楽を作るのは僕の心の中の問題であるからだ。AIが自分の代わりに音楽を作っても、それは他の人に作って貰うのと同じで、だったらわざわざ自分が音楽をやる意味は無い。

ただ、手助けをしてもらったり、情報をもらったりする上ではこの上なく便利な道具として、AI的?な優れたPCプログラムはこれからも使わせて貰うだろう。

まあ大河ドラマはフィクションだし、紫式部と清少納言が仲良くしているなんて嘘くさいと思っていたけれど、こんなに美しく「枕草子」の誕生を描けるなんて、しばし震えが止らなかった。
ドラマの中にやけに「史記」の話題が顔を出していたが、ここに「敷き」「四季」と駄洒落のように結びついて、定子を含めた三者の織りなす世界が、歴史を歪めてもなおも美しい。

理屈で説明しきれるものではないし、観ていない人には解りにくいだろうけど、どうもこのシーンは大河史上最高だと話題になっているらしい。そんなことを感じている日本人が沢山いるということは、何か救われるような気がする。
もっと書と古文を勉強しておきたかった。

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大河ドラマ史に残る名シーン、と言わずにはいられません。

「光の君」関連の第二弾です。
有名な安倍晴明が登場して操作系の魔術の様な事をやっていましたが、まあ、魔物をやっつけたり、式神を出したり、ノストラダムスの様な予言をやってのける、現代でもスーパーヒーローですから、なんだって出来ちゃいそうな人ですね。
実際の記録に残る彼の役人としての仕事は天体観測です。それに基づき暦を作り、星の運行から来る吉兆の予言、大安や仏滅など現代にも通じる占いの元を作り出しています。
安倍晴明が雅楽と関係していたという話は良く聞きます。具体的にどう関係しているかはよく解らず、色々ググってみましたが、大河ドラマ「光る君へ」の安倍晴明の陰陽道指導をしている高橋圭也さんという現代の陰陽道家の方の文が解りやすいです。

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【陰陽師の教科書であった「漢書律暦志」には「音楽は人間の邪心を祓いのけて、天の正しい働きをもたらす」とし、「陰陽五行説の十干十二支と音律との間には非常に密接な関係がある」とある。また古代中国・秦の宰相・呂不韋の「呂氏春秋」に「音楽は天地自然のハーモニーで、陰陽の気を調える」とある。】
と高橋さんはXに書いています。「漢書律暦志」には音楽の5度圏、12律と陰陽思想の関係も書かれていると思います。(解説本は1万円以上するので手は出ません。難しそうだし)
ここで気になったのは「音楽は天地自然のハーモニーで、陰陽の気を調える」って、これはどこかで聞いた文句です。清明の仕事の天体観測からハーモニー。
これはまさしくピタゴラスではないですか?
三平方の定理で有名なピタゴラスは全ては数が支配していると言い、宇宙の全てのものは数と音楽の法則に則って出来ており、これらは数学的な比率や音の振動によって表現されます。
振動数が3:2で出来る完全五度と4:3で出来る完全4度を7回積重ねたものが、西洋音楽の7音階となります。5回重ねればペンタトニックですが。
占星術はメソポタミア文明の古代バビロニアから発達していったと言うくらいに古くからあり、その文明文化は古代ペルシャにも繋がっています。
ピタゴラスは行方知れずの何年間かがあり、その間ペルシャに行って占星術、数学、音楽、その他多くの文明文化を学んだという説があります。元々善悪二元論も陰陽説の元になったという考え方もあります。楽器も色々生まれていたことでしょう。
ピタゴラスが日本に、なんて事は言いませんが、古代ペルシャの占星術、二元論、音楽論、その他の多くの発祥元はペルシャに有ったのではないでしょうか?
決定的にそう思う事があります。それは五芒星(ペンタグラム)です。
ご存じのように安倍晴明の家紋にもなっている五芒星は自然発生的に発見できるものとは思えません。これがピタゴラス教団のシンボルでもあるのです。

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バビロニアでは木星、水星、火星、土星、金星を表し、陰陽五行説では、木・火・土・金・水の5つの元素の働きを表していると言われます。

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ここからは空想の世界ですが、もともとバビロニア辺りで生まれた文化はペルシャが生まれる前か後かは解りませんが、何年もかかって古代中国にもたらされた可能性が高いと思います。また老荘の時代も相当古いですから、ピタゴラスのようにそこで学んで来た人が何人かいてもおかしくはないでしょう。
また呂不韋や始皇帝はソクド人(イラン系=サマルカンドを拠点とした)という説もあります。TVで始皇帝の作った兵馬俑を見たとき、どう見ても胡人(中央アジアから来た人たち)だと思いました。中国に元から根付いていた道教(老荘思想)と結びついて、陰陽思想が生まれたとも考えられます。
細かな証拠は挙げられませんが、日本は中国や朝鮮から来た文化のみで出来ている説が強いですが、実に多ジャンルに渡って世界と結びついていたんだという感覚が強くあります。

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ロバの音楽座というグループに居て、引きこもりに近い僕自身は今までちゃんとロバを見る機会が多くはなかった。
まあロバの知識はあっても、それは想像上のユニコーンやドラゴンやエルフに近い、とても観念的な神々しい存在だった。
自分ではどんな動物か説明も出来るし、実体験が無くても情報として「ロバの歌」に歌われている性格などを感覚的に解っているつもりだった。
今回、ロバの音楽座の尾道ツアーで、尾道のロバ牧場に行く機会があった。
ああ、僕は何も知らなかったに等しかった。ここまでロバを体感したことがないに近い。それはまず複数頭の群れで居ることも大事なことだ。
主人は「プラテーロとわたし」に影響されたと言っていたけれど、まさにあの詩の感触そのままの感じがした。
ロバは色々な性格があり、接していると本当に人間の子どものように我儘でやんちゃで可愛い。
宿泊施設もあるので、近くに行った人はぜひ寄って欲しい。ロバを好きになること間違えない。
HPには写真家の娘さんの撮った綺麗なロバの写真が沢山載っている。
ロバの背中に十字模様が付いているのを初めて知った。ロバがキリスト教に愛される所以だ。
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太陽劇団の「金夢島」観ました☺️
前回日本に来た時の「堤防の上の鼓手」は文楽を生身でやるような演出でしたが、今回能や狂言、歌舞伎をはじめ、ありとあらゆる日本の文化を表現に取り入れた、美しく何か込み上げてくる様な感動がありました。
1人の療養中の女性がベッドの中で日本を想い妄想する、恐らく舞台はこの病室から一歩も出ていないのだろうが、その白日夢に現在の世界のあらゆる事が展開され、凝縮されています。
3時間15分と言う長い舞台だったけれど、バリ郊外の太陽劇団のアトリエで観た7時間には及ばないです。あの時は字幕も無しで派手な演出も無く、それでも伝わるものがありました。インドのガンジーやネールの芝居で休憩が1時間。インド人に扮した役者がカレーやナンを売っていた。主宰のムヌーシュキンさんがもぎりや案内をしていたのが印象的でした。
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今回この3時間越えの芝居が終わった後、特別に約1時間近く、ムヌーシュキンさん(今年84歳)を囲んだ交流会+この作品に思いと質疑応答がありました。実に8割のお客さんが帰らずに残って話しを聞きました。感想は皆素晴しい舞台でしたと言うのですが、なんか質問内容は「日本文化は雅楽などもあるけどそういったものは取入れないのか」とか「表現にあえて携帯電話をなぜ使うか」とか、通ぶった概念的な質問が多く、もっと太陽劇団自体の活動のことを聞きたいと思いました。
どれも答えに困るような内容が多く答えるのにとても時間がかかり、もう少し時間があれば僕だったら団員の音楽面の事を聞きたかったです。今回団員が歌う歌がどれも素晴しく、例えばビートルズの「ビコーズ」を3人の女性が生のヴィブラフォーンを伴奏に(ほぼアカペラのように)歌ったのですが、これが本当に演劇畑の人達のコーラスかと思う程精度の高い素晴しいものでした。またアラビア語の素晴しい歌や、日本の謡を真似たようなその歌唱力に驚かされ、この様な音楽的素養は元々持って劇団に入ったのか、また劇団に入ってから色々な経験を積むうちに身についたのか、そんなことを聞きたかったです。
今回、異常な量の各国の民族楽器等を持込んで演奏していた、音楽担当のジャン・ジャック・ルメートルの姿はありませんでした。劇に音を付ける彼の姿勢に自分を投影していたところもあります。それだけは残念でした。
うちの奥さんなどは「訳がわからない部分が多い」などといっていましたが、話しを追えば何でそこはそうなるのか解らない部分も多いと思います。まあ僕なんかは言いたかったこと、なぜそこにそうなるとか、そんなことより、「ああ、こう表してきたか?」「おお、こう来るか?」それとフランス語の台詞の綺麗なこと、そこに日本語が絡んでくる面白さ、ある意味取り合せの面白さがたまらない部分があります。
最後に能の舞を踊りながら、アメリカの古いスタンダードが流れ歌われますが、恐らく元の歌に団員達の下手だけど一生懸命に声を出して歌っているその歌が何とも始めて味わう化学反応で、なぜか泣けてきます。途中に一度歌われましたが、最後はこれで締めるかなと思っていましたが、それは見事的中しました。
カメラ禁止だけど、無断で撮った写真は舞台の様子とムヌーシュキンさんとの交流会の様子です。声も録りました。
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小学生の終り頃から高校に入る頃まで「0011ナポレオンソロ」というスパイもののTV番組があって、みんな 夢中になって観ていた。
主役のロバート・ヴォーン演じるナポレオン・ソロ(声:矢島正明)と、ロシア人スパイを演じるデヴィッド・マッカラムを演じるイリヤ・クリヤキン(声:野沢那智)の活躍する、もうストーリーも何もかんも忘れてしまったが、とても懐かしい番組を思い出した。
最近デヴィッド・マッカラム氏が90歳で亡くなり、ロバート・ヴォーン氏も既に数年前に亡くなってしまったが、よくよく考えてみると何でナポレオンというタイトルを(日本でのみ、原題はThe Man from U.N.C.L.E.)付けたのか、昔からずっと気になっていたが、ナポレオンの肖像画を見たとき、「ああこれはロバート・ヴォーンだ」と思ったことがあった。その絵と同じ画像は見つからなかったが、骨格がとても似ている。
もう一つ奇妙な偶然だが、デヴィッド・マッカラムは役はロシア人だけど、実際はイギリス人でロシアと関係ないのだが、どことなくプーチンの若い頃と似ている。実際にプーチンはKGBのスパイだった。
当時主役のロバート・ヴォーンの人気を凌いだデヴィッド・マッカラムに、2人の不仲説が流れたが(僕はそうではないと思っている)よく考えたらまるでフランストップとロシアトップの争いのようだ。
サルコジ元大統領は「ロシアとの関係を見直したい」「ウクライナがEUに加盟しないで中立であるべき」と発言し、ブラジルのルラ大統領は「対話を基礎にしなければ和平は長続きしない」と停戦を主張し、とどちらも当たり前の事を言って批判を受けている。
僕の友達は0011が好きすぎて、小学校卒業時の俳句を作って載せたのが、あまりにストレートすぎて笑えて未だに忘れられない。
「アンクルの カッコいいぞい ナポレオン」
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「王様は裸だ!」
往々にしてこれを言えるのは子どもなのだ。
なぜ多くの大人はおかしいと思ったことを口にしなくなったのだろう。
社会全体が政治に関して公に意見を述べることは、どこかの国のように拘束されたりしない極めて民主的な国のはずなのに、大人たちは何かに怯えるように意見も言わず選挙にも積極的ではない。
同調圧力という事もあるのだろうか?空気が読めないと言う言葉はよく作ったものだ。ああ、読めなくて結構。本来なら人の数だけ考え方があり、意見があり、趣味があり、心は自由だ。かと言って人の自由までねじ曲げ奪う事のない配慮は、弁えるべきだろう。
喧嘩をしたいわけではない。どういう道を辿るのが良いのか、様々な意見から淘汰されて行くのだろう。
やはり、国会という狭い会議室から数人の政治家の見方が淘汰されないでキマリになってしまう事を「おかしい」「王様は裸だ!」と言わしめるのだろう。
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温品淳一氏、黒川眞一氏(高エネルギー加速器研究機構名誉教授)らは、ALPS処理水の海洋放出における「正当化」、つまり利益と害を比べ、害は国内外の海産物の需要の減退、1000億円以上という処分予算、数十年という長い期間など甚大であるのに比べ、得られる利益についてはほとんど説得力のある説明はない、と言う。利益について政府と東京電力の説明では、福島第一原発の廃炉作業の進捗に支障があり、陸上でのタンクの保存にリスクがあるなどというが、海洋放出の便益と害では圧倒的に害のほうが大きい、と述べた。
今回の海洋放出が「汚染水だ」「処理水だ」と考える前に、なぜこのリスクを考え無しで始めたのかがよく解らない。中国が日本の海産物を買わなくなるなんて予想できたろうし、風評被害をカバーするために福島の漁業関係者に一体いくら政府は支援金を払い続けなければならないのだろう。
検査上ではクリーンな水を放出しているのだろう。だったらこの水不足の折、海に流さないで生活用水に回したら良かったのに。それならみんな安全性を理解するだろうし、こんなリスクを負わなくて済んだろう。
経産省のALPSが如何に優れているかの説明はある程度理解できるが、取除いた放射性物質はどういう経路でどこへ行くんだろうとか、ALPSのような技術が可能なら水を使わない冷却方法を考えるのが先だろうとか、我々日本人でさえももう少ししっかりとした説明や対応が必要な気がする。
まあ説明しないで事を進めてしまうのは、日本政府のお家芸みたいなもんだけど。
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日本が世界に誇れるものは幾つかあるだろうが、ファン層の厚さから言えばコミック、アニメなのかも知れない。
そもそもドラマとは何のためにあるのだろう。基本的にドラマはフィクションであり、多くのものは主人公の気持に感情移入し、主人公が成功すれば喜び、失恋すれば心が痛む。つまり自分のもう一つの人生を歩むために別の世界を体験するためと言って良いのかもしれない。僕は勝手にそう思っている。
自分が一流のスパイだったら、戦いで勝利を導く英雄だったら、ゾンビが一斉に襲ってくる状況を戦い抜くとか、結ばれない境遇で心が通じ合わない美女がいるとか、冒険をせざるを得ない状況に直面するとか、そういう今の自分にあり得ないもう一つの人生を疑似体験するのがドラマだと思う。それは小説、映画、テレビドラマ、漫画、アニメ、そう言ったストーリーと主人公のはっきりする世界なら、誰でもその体験の世界に入り込めるだろう。芸術作品や新しい表現はこれとは一線を画するだろう。
こう言うものがあるからこそやりきれない日常のストレスや苦しみから逃れられるのだろうか?実に多くの人達がこれに救いを求めている。事実、京アニ事件の時多くのファンが聖地のようにここを訪れ涙を流した。恐らく大多数の人たちにとっては神や仏に祈るより多くの時間をこれに費やしているだろう。
特に最近多いのがSFではない日常ドラマの中でのと「異世界転生」、時間が戻る「死に戻り」と言う設定だ。
前者の「異世界転生」は多くの場合、生前うだつの上がらないつまらない人生を歩んでいた人間が不慮の事故などで死んで、地球に似たような別世界で人生をやり直す。現代ほど文明は進んでいないが、大概の設定として魔法が使えてアクティブであり冒険心に満ちた新たな人生が始まる。別世界での生物や人種の出合いも新鮮であり、逆に生前に得た現代の知識が役に立ったりする。ストーリー的には過酷な試練が続いたりするが、何とかそこを生前とは違って真っ向からぶつかって行く。そんなドラマが多い。
もう一つの「死に戻り」は生前大事にしていた人が不運にも死を遂げて、それを回避するために過去に戻り、歴史を塗り替え運命を変えてしまう設定だ。多くの場合大事な人は助かっても、その操作のため別の友人が犠牲になったりと、なかなか思うように塗り替えができない。いくつものパラレルワールドの中から一番良い選択を得ているはずだが、他のパラレルワールドではみんな死んでいるのかなとツッコミたくなる設定でもある。
基本はスリル満点の娯楽作品なのだが、これに救われると言う事は自分の現人生よりは遥かにワクワクしドキドキし、生きていると言う実感が湧く人が多いのだと思わざるを得ない。
今の人生の中でも十分にアクティブに生きて冒険しがいのある人生を送る事は可能なのだが、現実は簡単にはそう言うものを認めてはくれない。ドラマの方がどこか都合の良い優しさがある。
特に宗教的にはなかなか救ってくれない事が判っている現代には、観るだけで救われる免罪符のようなものだ。
こんなものばっかり観て引きこもってばっかりいて困ったもんだと思うより、救いのない社会環境を作り出している我々人間全ての在り方生き方を問わなくてはならないのでは?

長くなるが、もう少しこの話題を拡げたい。話しがアニメの方に行ってしまい、少しばかり核心からずれた気もする。
それはそれでも良いのだが、人間はなぜドラマに夢中になるか?それは人間であることの証かも知れない。
なぜなら、ドラマを見てドラマの中のもう一人の自分に感情移入できるのは他の動物には出来ないことだ。他の動物は夢は見るかも知れない。でも自分で想像しながらその世界に埋没したり、ましてやそのドラマそのものを創造あるいは想像することも出来ない。確証はないが出来るならその動物は人類にまで進化したかもしれない。
もう少し言えばドラマは時間を制御する。単発で君が好きだ!敵が来た!腹が減った!冬が来る!などとコミュニケーションを取る事は出来るが、この山の向こうにきっと素敵なものがあり、そこに旅をする過程で何かが起り、やっと出遭えた素敵なものによって自分はこうなるだろう。などと仮にそんな想像があったにしても誰かと共有することはない(と思う)。
人間は言葉という代名詞を使ってものを定義付けて、時間軸たとえば過去、現在、未来を分け、出来事を時系列に順序立てて伝えることが出来る。
凄いのはこの言葉で想像の世界を作り出す話し手と、それを聞いただけで想像で世界を構築することが出来る聴き手が居ることだ。
詩の世界、演劇、舞踏、音楽、映画、テレビドラマ、これらはどんなに頑張っても仮想現実だ。現実ではない。でも想像でもう一つの自分をドラマの中で生きさせることが出来る。ドラマを創り、それを共有し想像できる人間の存在が凄い。
ホモサピエンスは現実以外にも別の世界を持つことの出来る唯一の動物と言って良い。
そして創り手はなぜ常に新しいドラマを作り続けるかと言えばまさに人間の欲望で、千夜一夜のように、毎夕食するディナーのように、毎夜見る夢のように、常に新しい新鮮なドラマを味わい続ける習性が出来上っている。
で、僕自身が解りやすい音楽の話をしたい。
歌のない、つまり歌詞のない音楽、更に言えば表題も解説も映像もない音楽は、創造する側も凄いが、それを聴いてドラマを想像する側の力たるや、想像力に関してだけ言えば創り手を上回っている場合もある(世に言う標題音楽に対して絶対音楽である)。ただ音楽というもの自体の抽象性から言えば創り手と聴き手のイメージは異なっている場合が多いだろう。
元々音楽→音はもちろん言葉より先に存在し、多くの動物も音を発して何かをコミュニケーションすることは出来る。ただ殆どの場合それは瞬間的な音であり、子を失って悲しむツバメの歌は聴けても、時間を操作するドラマには至らない。
実はこの歌のない、無題の絶対音楽は聴く側によほどの想像力がないと、最初のテーマのメロディと響きの良さを味わったところで、しばらく経つと退屈な時間が続くことになる。
良く言われる例としてベートーヴェンの交響曲第7番が挙げられる。この曲は僕なんかはベトちゃんの中では最も好きなのだが、英雄や運命、田園のような表題曲ほど人気がない。指揮者で元オーボエ奏者の茂木大輔氏も自身の本の中で「名曲なのに日本では表題がないから人気がない」と言い、自身の監修のドラマ「のだめカンタービレ」ではテーマ音楽に抜擢している。こうでもしない限り日本では日の目を見なかった曲だろう。
作家の小林秀雄氏も確か「音楽なんて一部の専門家にしか解らん」みたいなことを書いてたと記憶している。そのあとどうフォローしたのかは忘れたが、そう言いたくなる気持も解らなくはない。
でも先入観もなく、興味津々で聴く子どもなどにどんな曲でも聴きながら絵を描かせてみると、素晴しいドラマチックな絵を描く。バッハでもラベルでもウェーベルンでも素晴しいものを書くだろう。これは単に音楽を映像化する思考回路がないだけで、大人でも絵を描いてみると素晴しいドラマ的なものを書くと思う。音楽の想像力は多くは映像化だ。ドラマと要ってもストーリーも具体性も何もなくて良い、色の羅列かもしれない。そんなんでも良い。ソナタ形式が解っていなくても、良い音の響きの連続と捉えても、とにかく風景などを想像することから始めれば、どんな音楽でも身体の中に浸透していく。。
僕ら創り手は若干でもそう言った要素は持っていないと提供した際に聴く者が風景やドラマを感じてくれない。ある程度壮大な想像力で描いた架空の絵がないと、聴き手は絵を創造してくれない。その想像の絵は今まで体験したことのない別次元の新鮮な世界であればあるほど、聴き手は自分が体験しなかった別の人生、別の世界を味わうことが出来る。
最後に、果してAIに創り手の作業を担うことが出来るか?聴き手として成立ちうるのか、僕の見解を答えておきたい。
結論から言えば可能だと思う。まあ現代音楽でも無為自然を表したいために、乱数表で曲を書いたり、サイコロを振って曲を作ったりする。世界の自然建造物だって(例えば海底火山や星のきらめきなど)意図も作為もないものを美しく思うのと同じだ。ただそういうものに美を感じても時間的なドラマを創ることが出来るのだろうか?
ドラマはあくまで現世では飽き足らない、別世界を構築することに喜びを感じる世界だ。聴き手もそれは同じだ。
AIが感情を持ち、自分とは別の世界に感情移入したいなら解るが、そんなことをする必要があるのかどうかの問題だ。どこまでが自分なのかという問題も含めて。
既にありとあらゆる音楽情報があり、自分が望めば生れ変わることも可能かもしれない。もし画面の中だけで生きているなら、あまりに自由に行動が出来るため、願望や望み、願い、欲求などがどう存在するのか解らない。つまり時間芸術としてのドラマ制作をAI自体が自ら望まなければ、猿に芸を覚えさせて絵を描かせる行為とそんな差異が無い気がする。 

昨日ロバのメンバーとその家族で、ロバハウスで古稀を祝ってもらいました。
みんなそれぞれ得意料理を持ち寄って全部が僕の好みのもので、全てが美味しかったです。日本酒も僕の好みのものを用意してくれて、最高の一日でした。ここ数年の中で最も食べ、最も飲みました。
思えば病気や事故をくぐり抜け、今日まで生きてきたのが奇跡のようです。杜甫が「人生七十古来稀なり」と言ったらしいですが、本当に生きているだけ稀な運の良い人生だと思っています。みんな口を揃えて「律ちゃんのお陰!」と言っていました。
 
免許の書換えにも行ってきましたが、高齢者講習を受けないと更新できない年齢になり、世間的に観たら爺様の年齢なんだなあとつくづく思いました。
 
今年はカテリーナ古楽合奏団50周年の年で、11/19に北とぴあで大々的にコンサートがあります。41年目のロバの音楽座もゴールデンウィークにコンサートがあります。まだまだ指の衰えもまったく無くやっていますが、なにせ分類上爺様なので何があるか解りません。元気なうちに聴きに来て下さい。

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今回、ワールドカップ予選リーグで日本が唯一負けたコスタリカ共和国は軍隊を持たない。日本は憲法で軍隊を持たないと言いながら自衛隊はある。コスタリカは自衛軍すらない。
軍事予算がないから軍隊を持たないのではない。過去の内戦の経験から軍隊を排除し、そして軍を持たなくてすむよう、周辺国との平和外交の努力を惜しまない。ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの内戦を対話によって終わらせるのに大きな役割を果たし(ノーベル平和賞を受賞)、周りの国への平和外交の働きかけで平和の国として認めさせている。当然米国や他国に護られてもいない。
軍事予算は教育費に回している。コスタリカの教育水準は国家予算のかなり多くを占める。
ウィッキに拠れば、かつては農業に大きく依存していたが、現在は金融、外資系企業向けサービス、製薬、エコツーリズムなど多角的な経済活動を行っている。コスタリカの自由貿易地域(FTZ)には、多くの外資系製造業やサービス業が進出しており、投資や税制上の優遇措置の恩恵を受けている。
なお平和への徹底は、警察は銃を持たない。そこまで徹底的に平和への土台を作っている。長年にわたり安定した民主主義政治を維持している国の一つだ。
また「世界一幸福の国」とまで言われている。
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またジェラシックパークや宝島の舞台ともなったコスタリカは世界有数の「環境保護先進国」として名高い。「王冠のジュエル」と呼ばれるくらいに、美しい自然が手つかずのまま残されている。島固有の動植物も多数生息している。
今日本は米国に護られているためかなり周辺国と緊張状態にある。軍事費を倍にすればますます緊張は高まりもめ事の渦の中に巻込まれている。経済的に豊かな状態であればまだしも、節電でこの冬をどう過すか考えている最中である。
今日本が学ぶべきはあらゆる面でコスタリカだと思う。こうなっては遅いのかも知れないが、サッカーで日本がその試合以外の事を含め中国にすら認められたように、今からの行動一つで世界の平和国家の代表になることだって可能なことだ。それは経済からも、平和の面からも、環境からも、全ての面で一番の理想を掲げ、それに向っていくしか未来はない。
 
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今川義元と織田信長、バルチック艦隊と日本海軍、フォアマンとアリ、巨大な魚とスイミー。圧倒的な力の差のある相手にコツコツと戦略を積上げ、最後に逆転劇で一気に勝利に導く様なドラマはいつの時代も心が躍る。
常にボールを奪いに行く。無駄に疲れるような動きを繰返すうちに何時か突破口が開ける。どんな敵にも欠点がある。そのほころびを見つけてすかさず一気に切込む。
こう言った勝利は特に力の弱いものにとっての希望で有り、どんなに勇気づけられたことだろうか。ただ決して運ではない。日頃のトレーニングと戦略のイメージで追い求め、どんな状況にも屈しなかった成果で、個の力の差はあっても、チームとしての実力は日本の方が高かったのに違いない。
これに乗じて弱い日本経済も政治任せにしていないで、智恵を使いコツコツと景気戦略を積上げ、明るく豊かな希望の持てる生活を勝ち取れるようになって欲しい。それはまさにファーストペンギンであり、スイミーであり、最初からあきらめては何も起らない。

サッカー

今回日本が決勝トーナメントに進出したことはとても嬉しく思ったが、僕にとってはとにかく自分が日本人だから良かったとは思っていない。日本人だから日本を応援しなければならない理由はない。今の日本チームが良かったから応援をして、ある程度結果を出せて心からこそ喜んでいる。
実は中田や本田が中心に居た頃の日本サッカーはあまり好きではなかった。彼らを個人的な好みで言っているのではなく、他の選手が打てる時でもどうしても「俺に回せ」的な強い個人に渡してしまう。まるで忖度に見えた。その強い選手が敵にマークされたら勝機は来ない。
サッカーはあくまでチームプレーの競技だ。野球ならピッチャーの投げた球をホームラン打たれたら、どんなにチームプレーをやっても得点を阻止できない。打つ方は走者がいなければ全く個人の世界で、守備はボールを持った者以外殆どプレーには参加できない。サッカーはボールを持たない者まで空間を作ったりポジションを変えたりプレッシャーをかけたり、切込みにはアイディアを駆使し、裏をかいたりフェイントをかけたり、セオリーのない即興演奏の様だ。それが今回の日本チームは見事であり、個性を持ちながらも選手のバランスが良い。
勝ち負けなんてスペイン戦のあの1mmの判定が象徴するように、ほんの僅かの差でしかない。そのほんの僅かの隙を作るゲームだ。コツコツコツコツと積上げて勝ちを取りに行く。そんな詰碁のような緻密さと、麻雀のような運との両面を持った競技だと思う。それに見合った勝ち方をしている日本だからこそ応援しできた。今までの日本チームは、
やっぱり勝つために絶えずプレッシャーを変え、切込むアイディアを絶やさないチームに対しては応援をしたくなる。
今回特に思ったのは良いチームとは球を持つ選手の役割ではなく、それ以外の選手はどこの隙間に入り込むか、その動きが相手の隙間を作るか、それが阿吽の呼吸で出来るチームだ。演劇で言えば台詞のない役者の立ち位置だ。そこで何をしているかで球を持つ選手、台詞を言う役者が活かされる。音楽のアンサンブル、特にソロプレイヤーとバックを担うプレイヤーの関係も言わずもがなである。
良いサッカーのアンサンブルはそれを見ているだけで芸術的とも言える。今回の日本のサッカーはそれが何度も見れた。それが価値があることで、それが出来る日本チームで誇らしく思った。
今回は前回と同じベスト16だったが、内容は同じベスト16ではない。個人技のPK戦は負けても仕方がない。個人技では元々叶わないチームと対戦して勝ちを得て来た日本なのだ。こればっかしはそこまで運が無かったと思わざるを得ない。ドイツだってあの日本対スペイン戦の1mmのために決勝リーグに行けなかった。サッカーもフェンシング並みの精密な判定が必要とされ、もはや人間のジャッジでは判定が出来ない。もうこれは神のみぞ知る判定なのだろう。

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