Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

カテゴリ: 歴史

「光の君」が今年の大河ドラマで、恐らく紫式部と藤原道長を描くのだろうと想像する。自分の娘彰子を一条帝の妃にし帝の子を成したい道長の策で、当時すでに人気のあった「源氏物語」を書いている紫式部を呼び、彰子の教育係とした。

はじめ帝は年端もいかぬ彰子に対してさほど興味を示さず、一向に彰子の所に通う気配はなかったが、彰子の所には紫式部が居て「源氏物語」の執筆をしているわけで、それが気になり彰子の元へ顔を出す。

帝は初稿を誰よりも早く読める彰子の元に通うようになる。(これが道長の策なのか?)毎日少しずつ執筆をし途中で終っている。結局帝は続きを読みたくて毎日のように彰子の所に通うようになり、やがてめでたくお子が出来た。

 

「源氏物語」は夜伽噺である。光源氏は夜伽を催促するくらい女の添寝がないと眠れない体質を持つ。

書物としての「源氏物語」は帝に対する夜伽を彰子の変りに代筆した様なものだ。彰子から直接ではないにしてもお話しの面白いところで朝ドラのように「つづく」となる。お陰で帝は明日もこざるを得ない。

 

これで連想したのは「千夜一夜物語」のシェヘラザードだ。妻の浮気からの怒りで毎晩処女と結婚しては処刑するという王様から、愚行をやめさせるためにシェヘラザードが名乗を上げる。

シェヘラザードは王に面白い話しをさんざん聴かせて、夜が明けると突然話をやめてしまう。まさに「つづく」で終るのである。結局王はシェヘラザードを殺すどころか正妻として向える事となった。

 

「千夜一夜物語」はサーサーン朝ペルシャ(3世紀〜7世紀頃、現イラン)の話しで、道長はこの話しを知っていたのではないかと僕は考える。それは途方もない話しでも、お伽噺でもない。

 

何度かブログで話題にしたことがあるが、7世紀、イスラムの台頭でサーサーン朝ペルシャは滅ぼされ中国の長安に多くのペルシャ人が逃げてきた。長安の町は多くのペルシャ人でごった返したという話しもある。日本にもその流れがある。鑑真が連れてきた弟子の中にもペルシャ人の名前があるし、帰国する遣唐使の船に乗って何人も来ているし、今ここで詳しくは説明する場ではないので、調べたい人は調べて欲しい。

(↓話題は楽器の事だが個人ブログにその事に触れている)

http://blog.livedoor.jp/tessey49/archives/2018-11.html

 

シェヘラザードの様に殺されるかどうかの事態ではないにしても、子を成すかどうかは道長にとっても生きるか死ぬかくらいの大問題だ。文学を愛した道長の所には紫式部や和泉式部をはじめ日本文学の最高峰を自分の手の内に持ち、史記からインド・ペルシャまで混じった唐=世界の情報を集め、おそらく世界に恥じぬほどの文化水準を握りしめていたのだと思う。僕は当然のように道長は「千夜一夜物語」の概要を知っていたと思う。
 

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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば

この傲慢とも取れる歌は単に娘たち3人を全て帝に嫁がせて満足じゃあと歌っているのではないと思う。その文化文学世界の情報それらを全て手にした、世の誰にも解らない自分の「知の宝物」に満足した歌ではないのか?

突然ですが
NHKBSプレミアムの8Kシリーズ 大英博物館
本日(3/6)深夜1:30〜(1)「響き合う大地−古代ギリシャ・メソポタミア・中世イギリス−」
本日(3/6)深夜2:44〜(2)「創造の秘密へ−古代エジプト・アフリカ−」
 
この番組は未知瑠さんの音楽担当で、個人的にPsaltery,Santur,Lute.Lautaなど色々演奏しています。昨年9月に8K番組として放送された(らしい)のですが、8Kテレビを持っていないと観られないため自分でも観ることが出来ませんでした。この度一般でも観られるBSプレミアムで放送されることになりました。
冒頭にもSanturの音色などきこえて来ますが、特に「創造の秘密へ」のエジプトのミイラのシーンでLauta、スーダンの竪琴のシーンでPsaltery等がじっくり流れています。
自分が演奏しているという事以上に、はじめて映像で観るものも多く、とにかく映像が素晴しく鮮明です。これを8Kで観たかったというのはありますが、たまに再放送するハイビジョンでも充分綺麗です。8Kでも良く再放送をしているようです。
 
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古事記は現存する日本最古の歴史書であるとされます。
編纂が712年。紙に書かれたものはいずれは朽ちます。古事記も原本は現存せず、幾つかの写本が伝わるだけです。
古事記は日本最古を主張しています。「帝紀」や「旧辞」というのが原点とされてますが、現存していません。
時の権力が古事記以前に書物があってはならんとして、それ以前の書物は全て燃やされ根絶やしにされたというのです。元々ヤマト政権以外の豪族は平定され、それぞれの歴史も無かったことにされたと言うことはあっても不思議では無いでしょう。

古事記以前に書かれた書物が幾つもあるという説があります。つまり滅ぼされた側の歴史です。
それは共通して感じ以前の文化で神体文字という記号のような表音文字で書かれていて、多くは門外不出となっています。多くの古代史研究家からは偽書とされ、いわゆる「眉唾物」と言われています。
それらを総称して「古史古伝」と言われています。

「古史古伝」という言い方は、吾郷清彦が『古事記以前の書』と言う本で最初に提唱したもので、佐治芳彦が呼名に訂正を加え「古史古伝」とし、一般的な総称となりました。それに値する古書とされる物は日本の各地に姿を隠し、現在公開された物はざっと20を越えます。
神体文字で残っているものもあれば、近年それを日本語に訳したものだけが残っていたり、様々です。 ただ面白い事にそれぞれの神話があり、歴史があり、文化があり、また互いに共通したものも多いのです。

例えば有名な「日ユ同祖論」、天皇家はユダヤの十部族の末裔だったとか言う説がありますが、その事が書かれていたり、キリストが日本に来たことが書かれていたり、歴史学者がひっくり返りそうなことばかり出て来ます。
凄いのは幾つかの古書で共通しているのですが、ニニギの孫で神武天皇のお父さんにあたるウガヤフキアエズという古事記には名前しか出てこない1代のみの神様がいるのです。幾つかの古書ではこのウガヤフキアエズが王朝の事で70〜80代続いたと言うのです。この代が微妙に違っていて逆に口伝ぽくて面白いのです。一人一人の名前まで書いてあるのもあります。ウガヤは伽耶から来て神武天皇はそこからやってきて降臨したという考え方なのでしょう。

当初「古史古伝」は「超古代史」と呼ばれていたこともあります。有名な竹内文書などは「創世記」にあたる天神七代は3175億年前に宇宙そのもののを作り、地球に降臨するまでの現象を7区分したような系統が書かれています。宇宙船、ムー大陸、ノアの箱舟、モーゼ、イエスの来日、まさにSF漫画的題材の宝庫です。

こういった胡散臭いものは僕は大好きです。どちらかというと妖怪物や超常現象の類に近いかも知れません。
逆な観方をしてみれば古事記だけをスタンダードとする理由も無いような気がします。歴史は元々時の政権が都合良く改ざんしていくものだし、史実とは考えにくい事も沢山あります。
古事記同様、大概は写本しか残っておらず、当時書かれた証拠はありません。ただそこに共通して消え去った神々の名前が希に共通して出てくるのです。横の繋がりがあったのか、どれかの古文書を元にして書写しながら別のストーリーを構築したか?
ただこの残された書物の量は膨大です。人間一人で完成できるような情報量では無いのです。

これらのテキストは暫し明治以降の日本の新興宗教の基ともなっているようです。もしその多くの新興宗教が古史古伝の影響無しに作られたとしたら、それはそれでとてつもない神的類似性として、見過せない信憑性を帯びてくるでしょう。
古史古伝の多くは戦前、新興宗教と同じように国からの弾圧を受けます。皇室のルーツに言及する事が多いからでしょう。

僕も信じるか信じないかと言えば後者の方かも知れません。でも妖怪は信じなくても妖怪は居たら面白いと思うのです。
仮に近年になって創られたフィクションだとすれば、一体これだけのでっち上げをなんのために行って、しかも門外不出にする必要があったのでしょうか?つまりこれだけのものを作り出した人間の心理、想像力そのものにとても興味があります。
古史古伝

とりあえず家の中から探し出した古史古伝関係がこの5冊です。他に5冊以上は在ったのですが・・・。
佐治芳彦氏の本を最も読んでいます。この方はちゃんとした歴史学者で、様々な古史古伝を比較し客観性を持ってみています。太平洋戦争、特に石原莞爾の事や、木地師の成立についての本なども有り、読みやすく興味が共通しているところがあります。

東京国立博物館にて  前期展示:2019年10月14日~11月4日 後期展示:2019年11月6日~11月24日
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まあ、予想していたものの、入るまで2時間待ち。
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御即位記念、皇室が守り抜いた、などと冠が付いて尚更の混雑ぶり。元々東大寺の一部なんで聖武天皇は関係あっても、宮内庁管轄は明治以降だから、そこまで皇室をうちだしたものなのか?
なんせリュートの先祖と兄弟の琵琶がずらりと並ぶので、これだけは見逃せない!

26歳の時、古楽器のルーツとなる中東=シルクロードを体験したくて、原付バイクを飛ばして正倉院と国立民族学博物館に向った。正倉院は当然だがガンと中には入れてもらえなかった。
正倉院は博物館のように何時でも誰でも入れると勘違いしていた。呆れた顔をされた。 
9000点ある宝物の中で年に一度だけ展示があり、そこでせいぜい70点程度しか(毎年替る)公開されない。まあそれだけの慎重さがあるから1300年もの間無事に保存されていたのだろう。 
今回、たまたま休みの時に行くことが出来た東京で開催された2時間待ちの正倉院展だが、憧れていた白瑠璃椀や竜首水瓶の本物にあって、初めてなのに懐かしかった。楽器はパンパイプもあった。
法隆寺を含む110点の宝物は数としては少なく感じた。歴史がひっくり返るような秘密の宝物もあるのかも知れない。
 
リュートの先祖と兄弟の琵琶がずらりと並ぶと期待していたが、実際には4弦のリュートのようにネックが折れ曲った紫檀木画槽琵琶が当時のものとしては一つだけで、5弦の折れ曲っていない螺鈿紫檀五絃琵琶は明治時代のレプリカだった(11月4日までは本物があったそうだ)。紫檀木画槽琵琶は8世紀の中国生れで、螺鈿紫檀五絃琵琶はインド産だと言われている。
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それでも本物と出逢えて良かった。4弦の紫檀木画槽琵琶はそれでも保存状態が良く、驚くほど響板と弦の間が狭く、エレキで言えばレスポールの様に弾きやすそうだ。ここはやはり生で見てみないと解らない。阮咸(げんかん)という丸い胴体の琵琶もあったが、これもレプリカだった。
 
元々琵琶の原型はペルシャのバルバットという現存しない幻の楽器で、確実なのはネックが曲っているところと、響板に張付いた駒から弦が張られている。
その特長を保ち、西に伝搬したものがアラビアのウード、それがヨーロッパに渡りリュートになる。さらに東に伝搬したものが中国に渡り、やがて日本の琵琶になる。
似たような経路を辿るのがやはりペルシャ生れのセタールだ。西に行けばトルコのサズ、ブズーキ、長竿マンドリンの系統になる。東に行けば中国の三弦、そして日本の三味線となる。
「se」は3.「tar」は弦を表す。「ギター=guitar」もちゃんと弦の意味のtarという言葉が入っている。

で、この実物を見て、なんでもペルシャに結びつけたがる僕が閃いたことがある。確実な根拠も確信もないので戯言として聞いてほしい。
琵琶はバルバットが中国に渡りピーパーになり、それが琵琶になった。これが一般的な説だ。
でもインド生れの螺鈿紫檀五絃琵琶はとてもピーパーに似ている。
4弦琵琶と言われる紫檀木画槽琵琶は8世紀頃中国で使われはするものの、直接ペルシャ人が持込んだものではないか?
 
さらに、インド生れの五絃琵琶は元々ペルシャから来たものの、こちらは大分前に中国に渡り今のピーパーになったのではないか。(長安に来たバルバットが、同族楽器のようなピーパーの名前を貰い日本で琵琶になったのでは?)
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前にも述べたことだが、ササン朝ペルシャはマホメットの出現でイスラム教徒に滅ぼされる。644年、つまりほぼ日本の大化の改新の頃だ。その後、中国、特に長安は逃げてきたペルシャ人で一杯になる。鑑真がペルシャ人の僧侶をつれて日本に来たのが753年。これを期に李密翳(り・みつえい)、破斯清通(はしのきよみち)など中国から沢山のペルシャ人が日本にやって来ている。
 
そして756年あたりから正倉院の基盤が出来てくる。白瑠璃椀や竜首水瓶もペルシャから来た事が定説になっている。多くの宝物がペルシャから来ているなら琵琶も直接ペルシャ人が持っていたものと考えて何が悪い?
中国ではネックの曲った弦楽器はそこまで多く描かれていないのでは?
 
写真の薩摩琵琶、筑前琵琶などがこの正倉院の紫檀木画槽琵琶からほとんど変っていない。三日月孔までほとんど変っていない。それだけ完成されたものだと言えるだろう。
正倉院と言えど、やはり全体的な宝物の損傷は思いの外激しい。1300年の時は重い。それでもこうして多くはそのままの形を留め、過去からのタイムカプセルの役割をしてくれている。在ると無いとでは僕にとって大違いだ。 


 

Queen→ペルシャ→日本について、多くの方が興味を持ってくれたみたいなので、図に乗って続編を話したくなった。
僕はペルシャ=西アジア地域は音楽家にとって最も重要な場所と捉えている。世界の楽器はあらゆる地域で自然発生的に生れているが、現代に至る重要な楽器の元は、多くはこの地域から生れていると言って良い。

先ず、この地域が如何に文化文明的に優れた人たちであるか知ってもらいたい。
皆さんはソクラテスやユーグリッドみたいなギリシャ文明をローマが受継ぎ、そのまま西洋に文献が残ったと思っている人が多いのではないか?
実は初期キリスト教徒からギリシャの書物を受継いだのはササン朝ペルシャで、ペルシャ語に翻訳され文化資産として受継がれていった。元々高い文明を持っていたペルシャの学問に融合し取入れられた。
この頃はまだペルシャ人の多くはゾロアスター教だった。
時を経て7世紀くらいにイスラム教=アラブが台頭してくるとペルシャに侵攻し、多くのペルシャ人はイスラムに改宗されたが、逃延びたゾロアスター教徒たちはインドや長安の都まで逃げ延びた。一部日本にまで来たことは前回お話しした。
イスラム化したペルシャはギリシャ文明もペルシャ文明も吸収し、元々あるアラブ文明を組合わせ、天文、医学、科学、思想、音楽まで含む全ての文明をまとめ上げた。全てはアラビア語に翻訳された。

その頃のヨーロッパは無法地帯で、ローマは時代と共に荒れに荒れた。キリスト教の様な啓示宗教(簡単に言えば悪いことをしちゃいけませんという宗教)が必要だったと思う。それによって秩序が保たれ、今のヨーロッパが形成されていった。
その文明の拠所にしたのが西欧の起源と言うべきギリシャ文明だったが、アリストテレスもプトレマイオスも全てアラビア語から翻訳された。12世紀、十字軍とアラビアが戦っている頃の話だ。
この話は一般の西洋史の本には絶対に出てこない。
以降、西洋は世界に侵攻しアラブ世界をも支配下に置いてしまう。まあ世界はご覧のような力関係でバランスが取れてしまった。

西欧がアリストテレス等の書物を知ると同時に、楽器や音楽の形態や理論も流れていった。これがカテリーナ古楽合奏団の演奏する古楽の時代で、ロバの音楽座が使っている楽器にも関係する。

結論から言えば現代の優れた楽器の基本形態は、殆どがペルシャ近辺で生れている。
ギターのように胸に胴体をあて、(右利きの場合)左手で弦を指板に押さえつけ、右手で弦を掻き鳴らす楽器は、何百年も基本的な構造がほとんど変わっていない。おそらく未来も生き続ける楽器の「種」であろう。
こういった弦を押えて音程を変えるギター系のシステムの最古のものは、ネックの曲がった古代ペルシアの「バルバット」という弦楽器とされている。それが東に伝搬したものは中国の「ピーパ」日本の「琵琶」。西に伝搬したものはアラビアの「ウード」西洋の「リュート」と変わる。この弦楽器の伝搬は、さながら現人類=ホモサピエンスがアフリカに住んでいた一人のイヴから始まり、その子孫が世界の至る所に流れていったのとよく似ている。
ギターはリュートの胴体を平らにしたもので、同じ血を分けた分家と言えるだろう。自然発生的な楽器も多々ある中、もし楽器というものにDNA鑑定が可能なら、この種の楽器の伝搬と影響を詳しく調べてみたい。
他にもこの土地から生まれた特徴的な楽器は打弦琴(サントゥール=西洋で鍵盤が付いてピアノに変っていく)、箱形琴(プサルテリーのような楽器=チェンバロの前身)、タンブール(後にマンドリンや三味線に展開していく)、壺太鼓(ダルブッカ)とあるが、実は全て僕の得意なものばかりがここから生まれている。
さらに弓奏の楽器(ヴァイオリンの元)や笛系(これは自然発生的なものとの区別は難しいが)を挙げ出すときりが無いが、少なくとも数学・科学などの高い学問から作られる楽器は相当質の高いものが出来ていたに違いない。

ぶっちゃけた言い方だが、もしペルシャが存在しなかったら、ブライアン・メイやジミー・ペイジはギターというものを演奏していなかった。ビートルズもセコビアも違った表現媒体の音楽となり、20世紀の音楽シーンは大きく様変りをしていたろう。

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このペルシャで楽器を発明した人たちはどんな人たちだったんだろう。ここからは僕の空想の世界になる。

イエスの降臨を予言した東方の三博士の話でも有名なあの聖職者たちのことをマギという(単数形はマゴス)。この人たちはゾロアスター教の聖職者階級で、天文、医学、呪術、幾何学に優れ、ペルシャ文化の礎となっている。マギはマジックの語源でもあるところが興味深い。
西洋音律理論の基盤を作ったと言われるピタゴラスは、30際の頃から約30年にわたって世界各地を放浪することになるが、よくマギとの接触の可能性を言われている。

このギターの先祖を始め優れた楽器の発明者達は「マギ」だったのではないか?
ピタゴラスが、世界各国を廻ったときに様々な世界の楽器に興味がなかったはずはない。ゾロアスター教の聖数は「7」だが、ピタゴラスにとっても「7」は聖なる数で、西洋音階の基本数も「7音」。
おそらくマギたちの音楽理論も確立していて、その神秘的宗教奥義には、後の基督教や仏教同様、音や音楽そのものが単なる宗教効果だけではなく、神との橋渡しを担い、当然様々な楽器達が作られ試行錯誤し、淘汰していったことと思われる。
ピタゴラスが音律を調べたのは「モノコード(単弦の弦楽器)」と言われているが、音律を調べるなら2弦以上ある弦楽器だろう。ギターのように箱に駒のあるしっかりと固定された減衰音の長い楽器ではないと、共鳴の状態は解らない。
ピタゴラスの楽器は、教団の迫害、弾圧とともに消えてしまい、マギの実態も密儀で本質は外に漏らさない為、本当の事は何も解らない。しかし、今僕が弦楽器に夢中になるのはマギの仕業ではないのか?
マギがいなかったら世界の音楽はまた違う方向に行っていたかもしれない。そんな魔法使いのような影響力の強い人々に敬意を表して、自身のレーベル名にも「MAGI」の名を使わせてもらった。

インドに渡ったゾロアスター教徒=パールシーの末裔にフレディ・マーキュリーや指揮者のズービン・メータがいる。
長安の都までやってきたゾロアスター教徒たちの一部は日本に来て優れた建築などに相当貢献している。「日本に来たペルシャ人」などでネット検索をかければ、親切な歴史愛好家がかなり詳しく教えてくれる。
ここに全てを書き表わすことは出来ないが、マギの末裔はとてつもなくエネルギッシュな印象がある。智恵もあり徳もあり一筋縄ではいかない彼らの生命力は、多くの日本人の僅かな血の一部として活き?づいているのではと思ってしまう。

フレディはイギリスに渡った時ずいぶん差別されたらしいし、日本も渡来人は随分と差別されてきた歴史があるらしい。
でも歴史を紐解けば全く逆な立場だった。数百年前まで西欧は後進国だったのだ。差別したり争ったり、やれ制裁だ、移民だ等と言合っている輩の何と多いことか。
少なくともどんな民族でも何万分の1かは共通した血が流れている可能性があると言うことを忘れてはならない。

Queenのフレディ・マーキュリーの映画が公開されてニュースでもFBでも話題になり大絶賛されているが、まだ観ていない。長くなるがQueenの話をしたい。

僕等の時代だとQueenは20歳を過ぎて出会ったグループで、デビットボーイ同様、多感な時期からは既に外れていた。
ビートルズの後、沢山の様々なアートロック(ニューロックとも言われていて文字通り芸術的ロックだが、それはもうロックというカテゴリーを超越した様々な音楽様式の融合体だった)を聴いたが、Queenに似たタイプとしてはハードロックと古典音楽の両面を持ったザ・フーや、少し後の中東や北アフリカ音楽をロックに取入れたレッド・ツェッペリンにすでに多大な影響を受けていた。
当時、同じ大学の女性にチケットがあるからと誘われ、武道館までライブを観に行った。1975年くらいだと思うが、殆ど初めてQueenを聴いた。
コード進行はアートロック時代に比べるとありきたりの進行が多く(もちろん細かな捻りは加えているが)、時にはこちらも着いていけないくらい一貫性がなくぶっ飛んだ信仰をしたり(ボヘミアン・ラプソディー等)、そんなに好きになることはなかった。

21世紀になってから高校生になった息子=琴久がやたらQueenを歌いたがる。なるほど、歌だけ聞いていると何とも凄みがあって自由で面白い。
あんなにビートルズを歌っていたのに、今は流石にもう飽きたという。ツェッペリンは歌わないのかというと、「Zeppelinの歌は『オーベイビー、愛しておくれ』みたいなことしか言っていないけど、Queenはもっと男女の愛だけでなく、友達とか人類とかもっと視野が広い、時折男声愛的な歌もあるけど」と言っていた。なるほどと思わざるを得なかった。
Queenの事は世代的に律子もよく知っていて、同じ頃キムタクの出るアイスホッケーの「プライド」と言うドラマで全編Queenの音楽を使っていたが、これには驚かされた。全く現代のサウンドと言って良い、素晴しくドラマにマッチした音だった。

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同じ頃もう一つ気になる話を聞いた。ボーカルのフレディ・マーキュリーはイラン人の血をひくという話を聞いた。僕はサントゥールをはじめイランの楽器や音楽が大好きで、自分の中にも遠くイランの血が僅かに流れているのではないかと思っているほどだ。(日本とイランの血の関係はここで書くと長くなるので後述する)
Queenの音楽にはペルシャティストは全くと言って良いほど感じないが、ただあの声と発想力と詩のイマジネーションはそういう血から来るものかも知れない。
後で知ったが、彼はパールシーでペルシャ系インド人で、インドで育って高校の時内乱を避けてイギリスに渡ったそうだ。インドに居た頃からピアノを習ってロックバンドも組んでいたようだ。裕福だったらしい。

改めて色んな楽曲を聴いてみると、様々な発見がある。
ボヘミアン・ラプソディーを聴くだけでも色んな工夫がある。何重にも重ねたコーラスは凄いが、その脈絡のない継ぎ接ぎはまさにコラージュだ。それぞれのブロックの手法に一貫性はない。
ビートルズの後期の音の細かな工夫も凄いが、それを遥かに超えている。ア・デイ・イン・ザ・ライフを受入れた僕が、これは当時受入れられなかった。
ギターの重ねも分厚くて凄い。感覚で即興フレーズを弾くのとは違い、かなり計算ずくで音を重ねている。シンセが流行りだした頃こんなサウンドを作っていたから勘違いされないように「no synthesizer」とまでアルバムに書いてあったらしい。

とにかく映画を早く観たい!律子と2人でシルバー割引きで見る約束をしているが、こちらも忙しいのと律子も親の介護があり、時間が取れるのが12月になってからだ。
律子もそうだが、Queenは女性の食いつきが良い。特に日本の女性が欧米より先にQueenを認めていったらしい。
ビートルズは別格だが、それまで男性社会だったロックに女性が参入してきた、彼らはそういうロックなのだと想う。

<日本とイランの血の関係について>
僕にとっては米のイラン経済制裁は故郷に喧嘩を売っているようなものだ。
歴史を紐解けば書いてある事だが、ペルシャは元々ゾロアスター教で、医学・天文学・数学・音楽・文学とあらゆる事に秀でた民族だった。8世紀になって突然イスラム教が台頭してきて、多くの西アジアの国がイスラムに征服・改宗された。ペルシャの多くのゾロアスター教徒は逃げて、一部はインドに(フレディもその末裔)、そして相当の人々が長安の都にまで逃げて来たらしい。それはペルシャのマジシャンとして手品師や軽業師が沢山いたという。
日本書紀などには胡人と言う名で西アジアから来た人たちが日本にやって来たことを書いている。特に遣唐使や鑑真等と一緒に仏教徒となって日本に来たペルシャ人の名前が何人も出てくる。建築の分野で活躍したらしい。松本清張の「ペルセポリスから飛鳥へ」にもその辺りの事が詳しい。
司馬遼太郎の処女作も「ペルシャの幻術師」、西沢裕子の「波斯の末裔」では、主人公の司堂義保もペルシャ人の末裔、文人たちもこの風土を越えた異文化の流れが気になるところなのだろう。
少なく見積って数十人のペルシャ人が日本に来たとして、その人たちが日本人と子をなせば、30代後には一億人を越えるペルシャ人の血の混じった子孫が出来ている可能性がある。計算上のことだが、そのくらい地球はグローバルに出来ていると思う。

そもそも胡人の多くはどこへ行ったのか?
ここからは独自の見解だが、ペルシャのマジシャンたちは日本の忍者になったのではないかと思っている。
忍者の多くは渡来人と言われている。元々飛鳥の時代から伊賀の里に住んだのか、串本に流れ着いた後続派が風摩になったのか、何も証拠はないが、明らかに異文化の発想、伊賀甲賀などの場所、部落問題、人里離れて住む理由が何となくそれを思わせる。

遣唐使と共に来た皇甫東朝は音楽の素養があったらしく「雅楽寮員外助兼花苑司正」に任ぜられている。
個人的には僕がサントゥールやセタール系の楽器に惹かれるのも、ペルシャの音楽に血が騒ぐのも、そういった事が起因しているのではと思う程、先人の魔力に取憑かれている。

魏志倭人伝ほど心が躍るミステリーはない。正確な中国の資料に残された日本の地名とその矛盾のため、邪馬台国は何処にあるのか?果たして卑弥呼は今の天皇の系列に当たるのか?この答えを出すための決定打が未だに存在しない。
最近、奈良の箸墓古墳がかなり年代的に有力な候補と報道されたが、このようにただ年代が符合するからといって、それ以外の何の証拠もなく卑弥呼の墓と一般人を思い込ませてしまうのは、いささか乱暴な取り上げ方と思った。せめてそこから出土した物と、魏国のその時代の物が一致していれば何かしら確証を得れると思うのだが、決定的な証拠は何一つない。
とにかく魏志倭人伝の中に書かれている邪馬台国への道筋が途中から煙に巻かれ、海の上に出てしまう。たった二千年弱の間に地形がとんでもなく変わってしまうことは考えにくい。様々な推論が出ているが、大概は記入ミスか解釈の違いで強引に自説に導いてしまうようなものが多い。まだ心底納得した説がなかった。
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私の仕事の同僚のお父さんに大宮眞人さんという方がいる。ご高齢で、歴史研究を生業としている方ではないのだが、九州や中国大陸を飛び回ってその研究成果は半端ではない。この方は『楚辞』で有名な屈原が実は日本に来ていたという独自の説を持っている。その訳は詩の中の古中国の発音の中に日本の古地名が道すがら順番に出てくるというのである。
日本でこの説に関する大宮氏の著書としての単独の書物は出版されていないが、中国にはその本が出ているようである。日本では季刊『南九州文化』や『三州文化』という南九州の歴史や文化を中心とした小雑誌にその論文を載せている。 実際に発音で聞かないと私などは解りにくいのだが、確実に中国の歴史研究家の意見を参考に、緻密に研究されている。特に九州地方の地名は事細かく研究されている。この屈原の詩に関しては、原語の発音の領域も含め、到底私には説明できるものではない。

近年、私にも充分理解できる驚くべき説を立てられたのは、その魏志倭人伝の煙に巻かれた道程の理由である。道程をごまかす理由があれば、魏志に書かれていることは真実を知っていながら嘘をついていることとなる。

それは「呉」の驚異なのだ。

大宮氏は「元寇の約千年前に呉寇があった」としている。 226年、呉は交州を直轄領に組み込み、南海貿易の利益を独占することになった。これをきっかけに、呉は恐らく一気に世界に眼を向けただろう。「呉書」には「孫権伝」に「夷洲、壇洲へ将兵万人を送り、調査させた」という記事がある。230年頃であろう。この『夷洲』『壇洲』が大宮説ではそれぞれ屋久島、種子島に当たるという。
その頃は曹丕がすでに皇帝になり、実質的に漢は衰退し三国志のバランス・オブ・パワーは成り立たず、呉の国は兵力の増強をもはや中国本土には期待できない所があっただろう。そうなると呉は国外に別の軍力を求めて出て行くのは当然の事かも知れない。239年に呉の脅威を感じた倭国は魏に最初の使者を出した。そして魏からの使者も迎え入れる。ただし、邪馬台国への本当の道は記録に残されては困るのだ。
実際に280年頃、呉が滅んでからこうした使者を出す動きも見られなくなり(記録に無いだけかも知れませんが)、それによって日中のおつき合いも疎遠になり空白の4世紀がやって来る・・・これほど筋の通った道程の改ざんの理由はない。

ここで更に大宮氏の屈原の詩と古地名の調査で得た、中国語の古発音による日本の古地名が鍵となって、実際の邪馬台国の場所を特定していく。中国読みだと、架空とされていた地名も順を追って現れてくる。魏の使者は伊都国(福岡県糸島近辺)から九州東海岸を旅をして、結論を言うと宮崎県の都城近辺に倭国があったことになる。使者の帰り道は九州西海岸を旅して伊都国に戻る。ここでも事細かく日本の古地名と中国語読みを対比しているのだが、なかなかローマ字やフリガナだけだと現実的に理解しにくい。
このあたりをどなたか感銘を受けた専門家が、マルチメディア的に本とCD、あるいは特集番組など作って、この壮大なミステリーに大手を賭けるような説を、一目一聴瞭然の編集で顕して欲しい。出土物を闇雲に探るのも良いが、まずは魏書や呉書に書かれている事からこれだけの答えが出てくるものなのだ。

大宮氏はさらにミステリーのもう一つの雄、徐福伝に論を及ばす。徐福の日本における伝説は逆に多すぎて取り留めがない。ただ明らかに徐福が不老不死の薬を求めて目指したのは蓬萊山で、これに相当するのは大宮説では屋久島にある宮之浦岳となる。これも発音で説明されている。
徐福一行も潮の流れに乗れば簡単にこのあたりに来られた。ただ徐福の伝説や名の痕跡はあるものの、それこそ確実に2200年前の漢字文化の何か一品が放射性炭素年代測定で証拠として見つかってくれると存在がはっきりするであろうが。

話は転ぶが、このあたりを日本書紀に吐火羅国の王がやって来た事が書かれていると言うことで、「トカラ列島」と呼ばれている。この名前は先日の皆既日食の時にずいぶん使われていた。私の感覚では吐火羅国は中央アジアのトカレスタン、すなわち今のイランの東北角でアフガニスタン西北部の国境沿いあたりのことを指すのではと思っている。唐会要/初回遣使年次に、タシケント国(石国)の1年後に、吐火羅国が唐に貞観9年5月(635年)朝貢している記録があるらしい。
この辺りの話の展開は次回に譲りたい。


大宮説に話を戻す。私はこれを世紀の大発見と呼んで良いと思っている。福岡で刊行されている『ちくごタイムズ』にも一面に大きく出たりはした。しかし全国紙を賑わすほどの騒ぎにはなっていないし、現実には書店に並ぶような状態でテキストが簡単に入手できない。 これをもっと検証して正当な評価が下るには、様々な人たちに読んでもらい検証してもらわなければ、価値の解らぬまま埋もれてしまうかも知れない。様々な見解が入り議論し、もしさらなる修正が必要であればそれを含めて改訂して、歴史のスタンダードとして存在して欲しい。これは予言の書を解読するのではなく、すでに存在した地名と正規の歴史書の地名の比定が鍵であり、今後の日本の歴史を解く正当な方向性を示唆しているとも言える。

季刊「南九州文化」http://www.bonchi.jp/book/book0191.htm
「三州文化」三州文化社 ℡:0986-22-5804
minamikyusyu
 

最近、あるテレビ番組で、アフリカのペナンに住むゾマホンという人が、日本人の若者に対して「歴史を知らなさ過ぎる!!」と激怒している番組をたまたま見て、あまりに面白かったのでこれについて書きたくなった。
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まあこれは歴史に限った事ではないし、若者だけかと言うとそうでもないし、若者に多いとも言えるがもちろん全部ではない。
「知らなくて恥ずかしい」と思うくらいなら、今までその事が「恥ずかしい」と考えた事すら無い事自体が恥ずかしいとも言える。
若者は受験戦争と言われるさ中に多くは大学まで行って、アフリカの多くの国々よりは色々な知識を身に付けられる環境にある。
しかしながら入試を過ぎれば奇麗さっぱり何事もなかったの如く忘却の彼方に追いやる。
まるで知識がある事がカッコ悪いとまで思っているようだ。
毎日が面白ければいい。
異性の事やドラマの事、美味しいものの事、Mixiの会話の事ばかり考えていれば楽しい毎日。

アフリカは教育を受けたくても受けられない所が多い。
自分の国の事を知りたい。
歴史を知りたい。
他の国はどうなっているのか、身分制度はあるのか、国を豊かにする方法はあるのか、家族をもっと楽に食べさせる方法はないのか、いまの日本人にはそれがない。

少なくとも父親母親がどんな生き方をしてきたのか、どんな先祖だったのか、先祖は何をしたかったのか、何を考えてきたのか、そんな想像をほとんどした事もないだろう。
少しでもしているなら、何かその手がかりを得ようとするだろう。
結局、勉強なんて興味がなければ試験の為のみで身にもならずに忘れてしまう。
どういった人が優れているかと優劣を付けてしまうのも嫌な話だが、無限の興味があり、そこから生まれる広大な世界観を持ち、あらゆる生き方や違った文化を受け入れる器を持ち、そこから生まれる自然な知識と知恵を持った人間がやはり優れていると思う。
人間が進化してほとんどがそんな人間になれば、命を賭けるような争いなど起こりようがない。
何の為に勉強するか。それはイマジネーションの糧だと思っている。

親父たちの時代は何を考え何を見てきたのか?
石器時代にはどんな恋をしたのか?
生命は何の為にあるのか?
宇宙の果てはどうなっているのか?
ずっとスカートの中にあるものを追い求めるだけの人生もあるのかも知れないが、人間としての頭脳の持ち腐れである。他人に迷惑をかけなければ自分さえ良ければ良いなどと、所詮人間は一人だなどと、とんでもない勘違いをしている場合が多い。

無差別殺人はゲームのしすぎで起こる訳ではない。
全てのイメージの欠如がもたらす結果、更にその中の自制の効かぬ者がしでかす事だと思う。
親たちの教育は知識を詰め込む事ではなく、様々な事に興味をもたらすように仕向ける事が大事だ。
若者の多くにイメージが欠けるとすれば、それは今の若者の親たち、つまり我々の世代の家庭に原因がある。

若者たちとゾマホンさんよ、知識は確かに必要であるが、イメージの無い知識なんて何の価値もない。
別に知らない事がある事自体はそんなに恥ずべき事ではない。
中には1つの事に没頭した結果、いろんなことを知らない人間も居る。
でも、アフリカの状況を切々と聞かされ、それに対して平気でいられるほど、若者は個人主義になってしまったかも知れない。
そんな状況も学生ならいっぱい学んできたであろうに、アフリカの教育現場から見れば食べ物を粗末にしてる様にもったいない話しなんだろう。

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