Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

タグ:ウクライナ

ロシアのウクライナ侵攻に対するNATOに歩調を合わせた経済制裁のため、物価の高騰、エネルギー問題、恐らくロシアが経済制裁の影響を受ける以上に経済制裁をする側のリスクの方が高いのではと思われる。日本の経済制裁はかなりの確率で効果が無く、損をするばかりだ。
これを打破する簡単な解決策がある。日本はNATOに準じないで中立国になる。ロシアとは昔通の外交関係を結ぶ。これを米が許さないなら米とはやんわりと手を切る。実際にウクライナを見ても武器は与えても武力で助けてくれる事はない。日本の米軍基地が破壊されるのは困るだろうが、それ以外の場所を真剣に守る義務は米には無い。ただ攻撃目標の第一は確実に米軍基地だ。
それよりもロシア、又は世界一の経済成長を誇る中国と仲良くした方が、経済的にも情勢安定にも良い方向だと思う。軍備もせいぜい海上保安程度のものまでで、憲法9条を盾にほぼ丸腰の状態で他国とつき合っていけば、日本をわざわざ侵攻して行くには現代の国際通年では大義名分が立たないだろう。
バックにヤクザの影をちらつかせながら交渉するのと、丸腰で交渉するのは、長い目で見ればどちらが信頼に値するか、言うまでもない気がする。
喧嘩の仲裁はすることはあるだろう。おかしな事には口を出さざるをえないこともあるかも知れない。ただ、基本の考えとして中立、干渉しないを貫かないと軍備にものを言わすやり方では永遠に安定した国家間の安寧にはならない。腹を割って話す関係も誰とも仲良くしていかなければ話しは始らない。日本の経済と命を最優先する、ジャパンファーストで良いのではないか?
確かに道義的に見ればロシアのウクライナ侵攻はおかしい。でもそれと同じようにNATOもウクライナも交渉の場を作ること以上にロシアの弱体化を望んでいる。だからこの思惑だらけの戦争は終りが見えない。
丸腰の日本がロシアに取込み本気で調停をすれば万に一つ打開できるのかも知れない。蘇秦や張儀などの中国の縦横家の様に身一つで交渉していくような人物を育て上げるには、たぶん戦闘機一機買うより安い。
台湾有事にも(台湾の人たちには申訳ないが)基本、中立の立場を崩すべきでは無い。危ないからと言ってむやみに米国と同調するのは得策では無い。むしろ中国と関係を友好的に保ちながら交渉のチャンスを伺って切込む方が、血を流さずどこも経済的損出をしない方法だと思う。米国は武器を売らないと儲けは出ないが。
昨日、NHK BS「英雄たちの選択」で犬養毅が取上げられた。若い頃から彼は日本の経済に見合わない軍事費の拡大に反対していた。日中戦争の最中、彼は5・15事件で暗殺される2週間前にラジオの前で中国との和平を強く主張した。実際に犬養は孫文の育ての親でもあり、中国の首脳陣と繋がりを持ち、和平交渉が現実になるよう根回しをしていた。その交渉の電報の返信を軍部に隠され、尚且つ徹底抗戦を主張する軍部に暗殺された。
この犬養毅がこのタイミングで取上げられたのは偶然では無いと思う。歴史に学んで欲しいという番組制作者、しいては犬養の怨念が未来に伝えたかった歴史ではないか?
彼の和平交渉が成功していたら日本の歴史は大きく変っていたかも知れない。真珠湾攻撃もなければ東京大空襲、広島長崎の原爆投下も起らなかった可能性が大だ。その後残った日本軍がどんな方向性に向かって行くのかはわからないが、少なくとも300万人に近い戦死者を出すまでには至らなかったろう。
今の日本はこの苦しい経済状態の中、軍事費を現在の5.4兆円から2倍にしようとして、それもかなり現実味を帯びてきている。またゼレンスキーもドイツの元首相が「交渉による解決」を図ることに「不快極まる!」と発言している。誇りと領土が元に戻らない限り戦争は続けると言うことだ。
今一度、人間にとって個人や経済が大事なのか、国や誇りや領土が大事なのか、何が一番大事なのか考えてみる必要がある。
戦争

無理は承知です。机上の空論なのも・・・。
実際に軍備の大半を捨てるくらいでないと、相手に理解されませんし。
国家というヤクザの組織の様なところから銃を取上げるなんて、馬鹿げていると言われてもしょうがないです。
軍備で国家の発言力と格が決るような風習も次の時代の進化しきれていない部分の様な気がしますし、僕にとっては核爆弾だけでなく、殺戮兵器全て無くさないと平和なんて訪れっこないと思っています。日本はそんな新しい時代の先陣を空気を読まず進んで言って欲しいと思いますし、全ての国がもう一歩先の人間に進化していって欲しいと思います。
日本の2〜3箇所核施設に爆弾搭載のドローンが飛べば、どんなに築き上げてきた文化も未来も一瞬で消えてしまいます。こんな事態を防ぐ事ばかり考えるより、人類はもっとこれからの未来を考えることに頭を使うべきだと思ってしまうのです。 

護るものは家族だとして、熊が襲ってきたら身の回りの何か棒のようなもので戦うだろう。
銃を持った強盗が襲ってきたら、どうすれば危害を加えないか説得に尽力するだろう。
爆弾を投下する戦闘機が襲ってきたら、被害を最小限に抑えられる場所に逃げるだろう。
アメリカではこう言う時のために銃を持つ。
熊なら何とかやっつけられるかも知れない。
強盗は銃撃戦になればさらに家族を危険にさらすだろう。
戦闘機は銃ではどうにもならない。銃を持っていればかえって標的になる。
銃を持つなら相手より数段上のクラスの装備をしていないと平和な家庭は維持できない。相手が高性能の武器を持ってくるなら、常にその数段階上を行かなくては安心できないだろう。
そうやって世界最高水準の武器を持つ事が大事になってくる。武器を買うためマイホームに費やす何倍もの対価を払っていく。誰よりも高性能の武器を持っていれば舐められる事はない。ヤクザのバックボーンをちらつかせるのと同じで、気持が良いほど相手を威圧出来るだろう。
そうやっていくうちに、相手もそれを凌ぐ高性能で威力のドデカい武器を作る。こちらの武器を無力化するようなものも出来てくるかも知れない。さらに優れた高い武器を買わないと追いつかない。こうなってくると何が家庭の幸せなのか解らない。武器の借金に追われ、安全を金で買う事はキリが無い。結局力のあるヤッチャンにもう少し金のかからない方法で護ってもらう方法しかなくなる。リスクは高そうだが。
きっと国はそうやって作られていったのではないか?
国が武器を持つなら一番パワフルな武器を選ぶのが良いに決っている。核兵器を持つ事だ。お互いが使っちゃ行けない核を持つ事で、平和になれるというのが今の保有国の考え方だ。でも戦争になったら掟も何もなくなるのは今回の出来事でもよく解る。核は使っちゃあいけないというルールはどこにもない。ガードしているのは自国と世界の世論だけだ。
今、日本国民の多くはウクライナ情勢を踏まえて、憲法を変え防衛費を増やし先制攻撃も視野に入れる事に理解を示し始めている。やるなら防衛費を総生産の5割まで増強しなければ世界一強い国にならないだろう。ロシアどころかアメリカだって引くだろう。
もちろん国民の食料は全て配給制にするくらい統制をとらされるだろう。そこまで安全に保険をかけた国は本当に幸せなのかという問題だ。
僕が思うに、今防衛費をいくら増やしても、増えた分だけ相手の脅威であり、戦闘になる確率はあがると思う。先制攻撃をすれば遺恨が残り、結局いつ来るか解らない攻撃を前に安寧は訪れない。防衛費をどうのこうのと言う前に話合いの場を設ける事が先ではないのか?北朝鮮だって現政権に一度も政府は話合いの場を設けようとはしない。兵器の後ろ盾がないと交渉は出来ないのか?単にヘタレなのか?
独裁政治の国だって、民主主義国家だって、交渉の場を設けて、お互い仲良くする事だって出来るだろう。
確かに僕のは綺麗事だ。だけどその交渉の場を作る事にミサイル一台分以上のお金をかけているのか?ミサイル一台打てばそれで戦意を削ぐならまだしも、結局それで解決にはならない。相手が打ち返せばそれで地獄の始りだ。
結局相手の気持を考えず、武器を持ったり威嚇したり、煽るような事をすれば戦争になる。
今回のウクライナ侵攻がそれだ。結局ウクライナがNATOに入る事がどれだけロシアにとって嫌なことだか、解っていながらそれをやるから今回の事態になったと思う。国同士はそれぞれ自由な選択権があるわけだが、考え方が違っても話合いで共存できる方法はいくらでもあったろうに、ここまでこじれてしまうとお互い後戻りできない。
先制攻撃ではなく、いかに戦闘回避に持っていくか、話合い一つ出来なければそれはとても危険な状態になる。常に取引と落しどころを踏まえて交渉していかなければ、こんな前時代的な戦争は起らなかったろうに。
今回の戦争で誰も得をしないし、幸せになれない。儲るのは武器を渡しているアメリカで、兵器の見本市を現場で実践している。とにかく如何に戦争を回避して行くかが平和に幸せになれる方法で、武器をちらつかせながらの交渉はヤクザの抗争と同じで、結果血と血で洗う状態になるだろう。
もっとも安倍晋三を始め今の与党の多くが参加する日本会議は「主権在民」「基本的人権」「平和主義」を憲法から無くす考えがあるようだ。この辺りの方々はなかなか隣の国と仲良くやっていこうとする発想はなさそうだ。
僕個人の感覚ではもし交渉に失敗し、理不尽にも国を奪われる事態になっても、命あっての物種だと思っている。人一人の価値は国や地球よりも大きい。たとえ住慣れた土地を奪われるような事態があっても、誇りを奪われる事があっても(嫌だけど)、個人一人が生き延びる事がより良い未来の可能性を高めてくれるのではと思う。

「麦と空」ウクライナと何も知らないロシア兵のために by Tessey Ueno


2011年に福島の事を想い作った「レクイエム」という曲(MAG RECORD-002)を、今回「ウクライナと何も知らないロシア兵」のためにリミックスし再構成しました。
とにかくこの戦争は誰が得をするわけでもない、誰も幸せにならない、世界中の誰も良い思いをしない。「プライド」と「誇り」という実態のないものが得をするだけで、焦土と悲しみだけが残っていく。
僅かな確率の中やっと得られた人の命は、誰もが平穏と幸せを得られる権利がある。
やがてやって来るであろう地球の大惨事の為に、人と人は理解し合い協力し合い、、無駄な争いでエネルギーを消費すべきではない。
人間はもう少し進歩し、進化したと思っていたのだが・・・。
動画はStoryblocksから、画像はShutterstockから購入したものです。限りある素材と予算の中での編集作業なので、充分に表現が伝わるかが心配です。
リュート、プサルテリー、タール、ザルブ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー、その他、作曲:上野哲生
歌:上野律子

2月26日

結局、邪悪なゴーレムから身を守るには仲間が必要だが、ウクライナ君には助けに来る仲間がいない。
勇者がいなければゴーレムを倒せないが、勇者とは結局地球を破壊してしまうほどの強大な武器を持つものだったりする。
元々世界警察を名乗っていた勇者は今は最新鋭の武器を与えはするものの、直接助けには行かない。
結局、脅威には脅威で対抗するしかないのか?そんな図式に何も出来ない自分等に嫌気が差したりする。
自分がスーパーマンのようなヒーローになって、ゴーレムを一掃してしまえばそれで解決か?
この手の喧嘩は絶対に仕掛ける方が悪いのだが、どうもこの戦争は一筋縄ではいかない気がする。
勇者からもらった武器でゴーレムも結構やられているらしいが、もしウクライナ君が勝とうものなら手を汚さない勇者が儲るように出来ている。
何がどうなっても全てがすっきりしない。自分等の身に迫ったとしたら、どういう行動をすれば正解なのだろう?
とにかく、威信や金儲けが人命より大事なんて事はあってはならない。民を守るために国というシステムを作ったのでは無いのか?

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国、って厄介ですね。
国ってヤクザの組織の様なもので、威信という舐められたらあかんという体裁がある。間違った判断で妥協すれば政権も命も失いかねない。
道を曲げないという意味ではウクライナもロシアも同じで、落しどころをさっさと見つければ良いのに頑として曲げない。要するに政府の意地で一般市民や兵隊の命が危険にさらされているようなもんだと思います。
これが台湾と中国の関係にも同じ様な事が起ってもどこを落しどころにするのか、人ごととはとても思えません。
 
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3月6日
確かロード・オブ・ザ・リングで、ある国が圧倒的な敵の武力に屈しようとしていたとき、「戦うべきだ、誇りにかけて」的な決意で結局戦い、結果的には勝利したという曖昧な記憶がある。
僕はそれを観たとき、結局追詰められたら戦うのか、誇りを捨てて奴隷になるのか、相手が圧倒的な暴力で来るときは戦争も免れないのではと、ただそうやっていては戦争はなくならないのだろうと思った。
今回はNATOに入りたがったウクライナの主張に端を発している。ロシアからしてみればNATOの包囲網が脅威だった事は確かだろう。
もちろん独立した国の主権を奪うのはとんでもない事だ。これは身近な台湾と中国の関係と似ている(僕等の子どもの頃は中華民国の名が地図に載っていたのを覚えている)。でも結局力には力で対抗するしか無いのか?
国家というのはヤクザのノリと同じで、舐められたらあかんと言う事で威信にかけて絶対に主張を曲げない。
それはロシアだけで無くウクライナも同じだ。お互いの歩み寄りや落しどころを徹底的に整理すれば良いのに威信が許さない。高いみかじめ料(税金)を払っているのに、それによって何よりも護られるべき人命が失われるのはおかしな話しだ。
結局、ロシアの核の脅しまで出て来て、安倍晋三が「核共有を議論すべき」まで言出す始末(議論する事は構わないけれど安倍さんが言うと結論ありきでしょう)。ウクライナも最後まで戦うと言う事が本当に自国のため、世界の安定のためになるのか、考えて欲しい。
僕等はウクライナに支援しても、結局武器を買うお金になるのではと思ってしまうのだが・・・。

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3月11日

毎年毎年毎年毎年、この時期が来ると8月6日9日の事よりも更に深いため息が出る。
福島の廃炉の事だ。
別に3月11日近辺のみだけでなくその事を考えている時があるが、廃炉の報道によって重くのしかかる。未だに原子力の廃棄物の処分場すら決っておらず、未だに処理水の問題を住民が納得しているわけでもなく、未だに廃炉の方法も方向性も決っていない。
11年間、時が止ったように何も新たな策が出てくるわけではない。ただただ壊したものを修復する面倒な作業が何世代も先まで残されている。地道にコツコツ進めていく作業では解決しない。人類は未来に向ってもっと新しい可能性を求めて羽ばたいて行こうとしていても、この修復作業が残されているため何年も晴れた気分になれない。
こんなリスキーで面倒な原発を再稼働し、更に原発を増設しなくてはカーボンニュートラルの時代に対応できないなんて言う政治家が日本の中枢に陣取っている。
また「日本の安全を守れない」と核シェアリングを推奨する政治家も中枢に多い。
毎年毎年毎年毎年、うんざりするほど廃炉までの道のりの長さを伝えられ、それでも原子力に頼ろうとする感覚が理解できない。僕も随分日本を守ろうとする政治家のグループの主張を覗いたり少しでも歩み寄れるところがあるのか探ってもみたが、そこに群がる理解者たちが自分たちと違う意見の者に対するヘイトの嵐に唖然とするばかりだ。
原子力を完全にコントロール出来ると言う事は、少なくとも下水を完備していないトイレのような状態で言える事ではない。廃棄物を魔法でお米に変えたり、廃炉が20年くらいで更地になって人が住める状態になって健康被害も起きない。そんなレベルで初めてコントロールできたと言えるんだろう。「福島の原発は完全にコントロール出来ている」なんて言ってオリンピック候補地を勝取った人も居たなあ。
兎にも角にも原子力が日本を守るものなのか、日本を焦土にするものなのか、僕の中では答えは明白だ。
「そんな綺麗事を言っている場合ではない」と言われても、いままで汚しに汚して来たわけだから綺麗事にしたい。宿題は夏休みのうちに終らせた方が良い。
防御ばかり固めても相手に脅威を与えてるだけだ。今を生延びるためにも多少苦しくても、自然な人間の状態に成長したい。

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原発の危険性は出来た頃から充分に言われていたし、解っていた事なのに、文明の進化と共に安全に導いてくれるのではと確かに他人事で済ましてしまった僕等全員の責任でもあります。
脱炭素にしても80年代からずっと言われ続けていたのに、今になっていきなり規制が激しくなり、航空機はあまり言われないのに、ガソリン車どころか暖炉で薪を燃やす事も牛を飼う事も憚るようになってきている。エネルギーも燃やせば殆どが有害なゴミを出すものだし、もっと早くから人間の生き方の指針を示していくべきだったと思います。
人間の生活の中で物理的にここまでは使って良いけれどこれ以上はダメとか、後に後に色々駄目出しがあるから社会も混乱を来すわけだと思います。
まあその場限りの展望で、専門家がいくら注意しても10m以上の津波は来ないとか高をくくって、安全性を出来るだけ安い方に安い方に仕向けた結果が福島の事故なのだから。政府や東電の所為じゃあないにしても、人間の後回しにする方向性は同じだったのかも知れませんね。

 
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3月20日

数日前の夜中、今まで計画停電すら対象外だった我が家が、久々に停電した。
とっさにテレビをつけたが反応がない。リモコンの所為だ。電池を替えなきゃと思った。こんな時だから何時風呂に入れなくなるかも知れないと思った。だが風呂のスイッチを入れても入らない。電気が無ければお湯も出なくなるのだが。いずれも停電してるんだから電気が通らないと復活できないことをイメージしながらも訳のわからない行動と考えが巡る。落着いていてもパニックになっている。
その時はこのまな永遠に解放されないのではと思うのだが、実際には2時間の出来事だった。
あのような規模の地震があると、ほんの僅かな時間だがこの世の終りを意識してしまう。何とも不甲斐ないような話しだが、きっと今の生を受ける前の、ひょっとしたら恐竜の時代の隕石が落ちてくる記憶なのか、もしくはどこかの星で経験した肥大化した太陽が惑星を呑込む地獄図の恐怖なのか、心の奥底に潜む何かを引っ張り出されるような気がする。
これが冒険者であれば一瞬先がどうなるか解らない状況を楽しめるのかも知れないが、ドラマの世界じゃあないんで、命がなくなってしまえばそれを楽しむ事も出来ない。
そんな一歩先が真っ暗な闇の世界をウクライナは味わっている。これは自然災害では無く、人間と人間が意志で防ぐことの可能な生き死の喧嘩をしている。やめようという意志があればやめれるのに、やめない。
やめない限り再び襲ってくることが確実だから自然災害よりタチが悪い。
2時間の停電で狼狽える我々の生活とは違った、そこは地獄そのものだと思う。
悪魔のプーチンは論外だが、ゼレンスキーも人命より誇りの方が大事なようだ。そんなに命をかけてまで国というものは護らなければならないのか?
僕はたまたま日本に生れた。日本は素晴しい国だが、これが中国であってもハンガリーであっても、アフリカの一種族であっても、もし自分のやりたい事が阻害されたり、迫害されたりしないのであればそれはそれで良いと思う。
住めば都。生れ育ったナショナリズムはあるかも知れないが、同じ地球人としてそれは何処でも同じだと思う。
つくづく思うのは、国という存在は「王道」ではなくシマを護るヤクザのような存在の集りでしかない。護られるべき民は威信と国益の前には簡単に犠牲になる。ヤクザというものの特技は死ぬ事が出来る。そんな中に一般の民がつき合わされて何になる?
武器や核にお金を使わなくて済むなら、どれだけ飢えた人たちを救えるのだろうか?
結局どこかが貧乏で居られるからどこかが富むという図式を世界が強引に肯定するなら、それはそれで戦わなければならない事だとおもってしまうのだが。 

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考えても考えても、道理しか出てこないです。直面しないとまだまだ想像の世界のままです。
そのうち日本も似たような状態になるのかも知れません。そうなったとき、自分はどうする事を支持し、どんな行動をとるのか、恐らく今の建前と矛盾だらけになります。
音楽でも詩でも絵画でもあらゆる表現方法を駆使して、違う人間同士でもいかに一人一人が尊いものかと理解しあえる事を信じるしかないような気がします。

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