Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

タグ:谷川俊太郎

谷川俊太郎さんのお別れの会に招待され、行ってきました。
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(まず驚いたのは、遺影の写真はロバハウスで撮ったものです。)

帝国ホテル富士の間で、ロバからはもちろんがりゅうさんも招待されていました。
千人入る富士の間にかなりの人がごった返しでした。
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詩人のお別れの会らしく、スピーチに詩を読む人も多く、特にお孫さんの(92年生まれの)最も大事な谷川さんの詩、初めて孫ができた時、その子がお婆さんになるまでを見据えた詩の朗読には涙を誘いました。
最後は録音された谷川さんの読む「さよならは仮の言葉」、そして最後はやはり「二十億光年の孤独」、これに賢作さんのピアノが入り、本当に俊太郎さんが宇宙に旅立って行く光景が見えた様でした。
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何よりなのは、遺影の写真を始め、スライドに映し出された多くの写真はロバハウスでの写真や、ロバハウスライブの時の写真がかなり多かったです。
遺影を含め、いつも谷川さんの写真を撮っている深堀瑞穂さんと話しましたが、ロバとのひと時が一番リラックスしていたと言っていました。打ち上げの時も僕らが肩肘張って話す芸術論も、面白がって楽しそうに見ていたとの事でした。

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ハーディガーディを弾く俊太郎さん
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ロバハウスライブにて
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ロバハウスライブにて
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賢作さんとがりゅうさん

ロバと関わった事で谷川さんと関われた事は、僕にとって宝の様な出来事でした。死についても「ちょっと怖いけど楽しみ」と言うほど、物の見方、想像力の巨人だと思います。ある意味、お坊さんの説法以上に色々考えされられたり、新しい発見を気付かされたり、その辺りが誰からも愛される所だと思います。

三島由紀夫氏は生前、NHKのインタビューの中で「人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」つまり「死ぬのも何かのためにということ、これが大義だ」「戦時中、自分が死ぬことを覚悟していた頃は、とても幸福だった」とまで言っています。

 

僕は自分が音楽を作ったり演奏したりする事を「聴いてくれる人たちのために」「聴いてくれる子どもたちのために」と、以前はそんな大義をたてて音楽家をやっていました。でもそれが本当にそう思っているのか、疑問に思えてくるのです。

本当に誰もが喜んでくれるものを提供するなら、現代の主流や流行りに合わせて何かを作る。それが人のためと言えるでしょう。でもどうもそのような道を歩んでいない。

 

そもそも音楽にどれだけ世の中を変える力があるのか、東北の震災やウクライナ侵攻のような災害級の事があると、三島氏のように何か決死の覚悟で行動で示したいという欲求に駆られる事があります。

実際に世界の紛争、世界の饑餓,難民への支援、被災地への救済、音楽家である自分がそんなことを少しでも支援し救おうとしても無理があり、挫折感を覚えるばかりで、誤魔化して生きるしかなありません。

僕が何で音楽をやっているかと言えば、正直に言えばそんなことを忘れられるからなのです。

自分の音楽で「人の喜ぶ顔が見たい」と良く言ってしまいますが、本当は人の喜ぶ顔を観た自分が喜んで満足したいのです。人に音楽で何かを伝えたいと思うのは人のためではなく、人に伝わった事で自分の喜びになるからです。それは人とおしゃべりをして楽しい事と同じだと思います。

もっと言えば、自分というリスナーを満足させたいから音楽を作っているのです。

僕の場合、あくまで「自分のために」究極の安らぎを求めて音楽をやっているのです。

 

三島由紀夫の場合、いくら本を書いてもそれが人にちゃんと伝わっていない、人のために書いているのに人の役に立っていないという感覚が強かったのではと思います。

これだけ本を沢山書いた三島氏が自分のために本を書く事には満足感を得られていないと思うのです。

「自分のためだけに死んでいけるほど強くない」

実はが盾の会を作って腹を切って「日本を護れ!」と人のために立上がった事以上に、三島氏がどれだけ文学で人を救っているか、人のために役立っているか、それを確信できないほど「強くなかった」と思わざるを得ません。

 

話しの角度を少し変えます。

不登校や自殺の子が出てくる原因はもちろん虐めもありますが、政治や社会や周りを見渡すと、まともな神経だったら現代に生きるのは嫌になってしまいます。

でも僕が音楽のように全てを忘れられる魔法のツールを持てているように、それぞれの子どもたちに役立つアイテムがあるのは間違えないのです。

子どもたちの間に流行るアニメなどで転生ものが多いのは、現実から離れて冒険者になったり、架空の王国を救ったり、非現実の中で人のために生きたり、死を恐れず何かに向っていったりする話しが主流です。だからこそアニメで救われたという人が京アニの事務所に涙を流してお花を手向けに来る。自分の親族すら滅多にお墓参りに行かないような人たちがです。

 

言い方を変えれば、感受性の高い人間はもの凄いアーティストになるか、何もしない人になるか、どちらかなのです。

マルセル・デュシャンも30代で何も作品を作らなくなり、チェスばかりして余生を過しました。川端康成も書かなくなり、自殺してしまいました。自分を誤魔化せない人はそんな感じだと思います。

「人のために」と思わなければ、芸術家も何もしなくなって酒ばっかり食らっているでしょう。格闘家はトレーニングをサボるようになるでしょう。それほど人間は弱いと三島由紀夫は言いたかったのかも知れません。

 

現代の日本で、人のために死ねるのは「ヤクザ」の世界に生きる人たちくらいでしょう。自衛隊だって人のために死ねるような組織には出来ていません。

人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」

いや、僕は自分のためだけに生きぬけば、自分のためだけに強くあろうとすれば、個の可能性を充分に求め続ければ、簡単に死に至る事は出来ない事だと思います。

思えば、この世に生まれると言う事だけでも、一回の受精の何億分の一の確立で生を受けたわけですから、まして宇宙の始りの事から未来の事までを想像できる人間という動物に生まれる確率だけでも、とんでもない分母の桁数となるでしょう。その人間が生を受けている時間なんてあっという間です。その潜在能力の可能性を考えたら、人のために生きるなんて言っている場合ではないような気もします。

 

僕は人のために優しい心になれる事は良いと思います。生きるためには支え合っていかなければ生きてはいけないから。衝動的に身を挺して盾になってしまう事はあるでしょう。でも自ら人のために命を捨てる事は無いと思います。それは同様に「誇り」「伝統」「国」を大切に思う心はあっても、命を張る事は無いと思っています。

あえて自分のために生きるという事は大変なパワーが要る事だと思います。現実に生きるために色んな事をしなくてはならないし、「人のため」と考える事はとても簡単な結論だと思ってしまいます。ただし自分のためとは何でも自由で我儘を通す事とは意味が違います。

 

「自分のため」とはとても孤独な世界です。

谷川俊太郎さんの場合は「20億光年の孤独」という、最初から「孤独」をテーマにし、孤独だからこそ万有引力のようにひかれ合う人の心を説いています。

「一人が歌を歌い出すと 声はこだまする・・・・・・自分で考え自分で始める(幸小学校校歌より)」

谷川さんは「さあみんなで何かを成そう」ではなく、個から始りそれが引かれ合って人間社会を成していく、つまり自分のために一生懸命何かをやる事が人を巻きこんでいく、僕はそんな解釈をします。

 

そうは言っても音楽を作る以上、相手の琴線に触れて欲しい、伝わって欲しい、それが諸刃のように交錯しているのも事実なのです。

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ご存じのように、今年の5月5日は谷川俊太郎さんとのロバハウスライブは延期になりました。今の世の中の流れの中で様々な不安がありますが、僕にとってこのライブが出来なくなってしまう不安はマスクや食料が手に入らなくなることよりも、何よりも大きいのです。

前にも話しましたが、うちのビデオは自動で谷川俊太郎さんの名前の出ている番組を検索し録画するように設定しています。だから見逃すことはありません。
杏林大学の金田一 秀穂さんとタレントの滝沢カレンさんが谷川さん宅を訪問し、カレンさんが詩を書いて来て、それを谷川さんが同じテーマで詩を書くという、俳句の連歌のようなEテレの番組、NHK高校講座が今日も再放送されて録画されていました。
まずこの番組に出てくる谷川さんのプロフィールを紹介する写真はロバハウスの2階で撮っています。谷川さんの向こうに「ロバの音探し」のジャケットも写っています。

僕は谷川さんの詩の中でもこの時の詩が好きで、詩集に載ったら一冊欲しいなと思っていますが、未だに検索をかけても市販の詩集の中に登場していないようです。

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いつも谷川さんとのライブのある5月5日の頃になると、改めて谷川さんの詩に触れて、なにがこんなに人の心を揺さぶるのだろう、と色んな角度から分析をします。
それは自分が音楽を作るときの自分にない、何かが隠れていると思うからです。

最近松尾芭蕉に興味が出て来ました。
俳句のことは疎く意味もよく解りませんが、芭蕉は母音と子音の使い方がとても流れが良く、音楽的で響きとしてとても心地よく、違う言葉に置換えてみるとその凄さが解る、その程度の理解力しかありません。
ただ「奥の細道」の後半から良く言われる「かるみ」という境地がでてきます。
「かるみ」を簡単に言うと日常に新たな美を発見し、それを複雑ではなく、解りやすくさらりと表現することになります。
「奥の細道」の最後には「不易流行」つまり万物は流れ変りながらも何一つ変らないという悟りのような境地があり、そこに人の世を重ねたときに見えてきた観念が「かるみ」と解釈できます。
人の一生は悲惨な別れの連続かも知れないけれど、そのような変わりゆく宇宙が不変の宇宙の中に包まれている。 そこにだれでも入ることの出来る大きな懐こそが「かるみ」と僕は勝手に思うのです。
それには表現は解りやすく、優しく、小さな自我はなく、あえて言えば「梵我一如」でしょうか。

この「かるみ」こそが実は谷川さんの詩にもっとも当てはまる言葉ではないかと思いました。 谷川さんが芭蕉に影響を受けたかどうかは解りません。
ただ言葉という装飾も何もない活字の中での無限を求める中、行着いたところがこの「かるみ」のような概念であったのかな、と思う次第であります。

「宝だから」を改めて読むと、僕にとっては今のこの時期にもの凄く響く詩なのです。
早く谷川さんにまたロバハウスでお逢いして、この事を語る時間が欲しいです。

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5月5日、今年も谷川俊太郎さんは来てくれました。

5月17日、カテリーナ古楽合奏団の演奏会も終りました。

色んな事があり、ようやく色んな事を色々振りかえる余裕が出て来ました。

まあライブはいくら語ってもその場に居た人にしか伝わらないので、多くは語りません。

 

写真はNHK高校講座に出演された時の谷川さんのプロフィール紹介をテレビごとiPhoneで写しました。

うちのビデオは谷川俊太郎さん、山下洋輔さん、坂東玉三郎さん、この3人の名前の出ている番組は自動的に録画するように設定されています。だから見逃しはありません。

 

因みにこの背景、よく見るとロバハウスの2階のプライベート食堂です。

この写真、色んな所でよく使われています。背景と谷川さんが良く合っているのだからだと思います。

谷川俊太郎展でもがりゅうさんが進呈したロバの置物が幾つか飾ってありました。

 

お話ししたいのはこの高校講座のために作られた谷川さんの詩です。

NHK高校講座では杏林大学の金田一 秀穂さんとタレントの滝沢カレンさんが谷川さん宅を訪問し、カレンさんが詩を書いて来て、それを谷川さんに見せる。

谷川さんがなかなか良い詩だねと褒めると、金田一さんがこれと同じテーマで詩を書いて欲しいと無理なお願いをする。

それで少し時間をもらって書かれたのがこの詩です。

 

宝だから

 

ほんとに大事なものはあるだけでいい

ほんとに大切なヒトはいるだけでいい

何でも誰でもあることいることで始まっている

 

朝 空がある 曇っていても晴れていても

昼 友だちがいる 気が合っても合わなくても

夜 働く人がいる 君が夢を見ている間に

 

たまには人間やめてもいいんじゃないか

キノコになって森にいてみる

クラゲになって海にいてみる

 

コトバになって意味やめてみる

声になってアンナプルナを呼んでみる

自分にもどってぼんやりしてみる

 

生きていれば毎日毎時が宝だから

目も耳も口も鼻も手足も忙しい

シニカルな大爆笑も宝石みたいに輝いて

 

 

色んな解釈があり、色んな感動、色んな感想があるでしょうが、悩める人間にとってはこれほど救われる詩はないのではないかと思いました。

ものもヒトも存在するだけで良くて、人同士の協調、期待、しがらみなどに悩む必要はない。

一度何にもなくなって、自分もなくなって、知能や思考も全て意味をなくし、そこでようやく生きている事のありがたみを噛みしめることが出来る。

それってまるで禅宗で悟りを味わうようなもので、読んだ人が全てから解放されて、とても爽やかに身体の血が流れて行くことを感じられる、そんな光景が映りました。

悩める高校生がこれを読んで感覚にヒットしたら、道元の正法眼蔵を読むよりずっと解りやすく簡単に救われると思います。

 

この詩に出逢って感じた事はロバハウスライブの時に谷川さんにも直接伝えました。

この詩を載せて良いものかどうか迷いましたが、NHKがそのまま載せているし、谷川さん自身もこの詩をネット上にアップし、誰にでも読めるようにするとおっしゃったので、あえて載せました。

詩集になったらぜひちゃんと買ってください。このような詩が無尽蔵にあります。

 

こんな詩に出逢える高校生は幸せだと思います。

そして、こんな自由で美しい言葉の世界の日本に生れたことは幸せと感じることでしょう。

 


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(2017/5/5 桧垣康彦氏撮影)

今年の「春のオンガッカイ」は全て無事終了し、今年も谷川さん親子とお客さんと素敵な時間を共有しました。 

谷川さんとの今年のジョイントメインは絵:川原田 徹, 詩:谷川 俊太郎の絵本「かぼちゃごよみ」を素材に、プロジェクタ投影して俊太郎さんが詩を読み、ロバと賢作さんが交互に演奏しました。     

川原田氏は北九州市門司の出身で、ブリューゲルやボッシュに影響を受けた強烈な画素材を鏤め、門司の昔の風景をさらに超現実的に変えていく様な不可思議な絵が展開されます。1月から12月までの十二枚の絵に谷川さんがその絵に則したり則さなかったりして詩を書いています。 

今回の企画が決る前に、僕は既に六月の詩に曲を付けていました。 

あまだれは おなじおと 
むかしもいまも おなじおと 
あまだれは おなじおと 
あのまちもこのむらも おなじおと 
おもいだせそうで おもいだせないおもいでのように 
かさでかおをかくして あるいてくるのは 
だれ? 

<谷川俊太郎>「かぼちゃごよみ」より 

本来、淡々とした情景を歌ったものと感じるものかも知れませんが、僕の解釈は違いました。 
まず、普通なら「雨だれはあんな音、こんな音、色んな音が聞えていいね」と来そうな所ですが、あえて「同じ音」としたのには訳がありそうでした。 

ひょっとしたら雨だれは、人間一人ひとりの事を指しているのかも知れない。雨だれがが音を発する事は人間の営みであり、それは如何に文明が変ろうとも、昔も今も、アフリカも中国も、金持も学歴も、基本的に変らない。極端に言えば人間も動物も生き方が大きく変るわけではない。より「不変」「永劫」を表しているのではと思いました。 
確かに原子レベルで考えれば全てのものは原子核と電子の組合わせで出来ています。組合わせが違うから違うもののように見えて、実は全ては同じもので出来ています。 

ヒンズーの教えに「梵我一如」というのがあり、宇宙と個人は同一のもので、自分と他は区別がなく、宇宙全体でひとつの生命という素敵な考え方です。 
手塚治虫の「ブッダ」では、乳粥をくれたスジャータが死にそうになり魂の輪の中に入ってしまうのですが、ブッダが神様にスジャータの魂を返して欲しいというと、 
「その辺の好きな魂を持って帰りなさい。どれも同じようなもんじゃ」 
と言って生返らせるというシーンがあります。 
これは史実とは全く関係ないフィクションですが、端的に梵我一如を表していると思います。 

また鴨長明の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」に近いのような気がします。生れては消え生れてはまた消える人の生と営み。ただここに出てくる「不変」は「無常」と対を成し、谷川さんの詩ではざっくりと「無常」は省略されています。 
心はあまだれのようにひとつの雲から生れて、その落ちた環境によってそれぞれの道を歩みますが、元は同じものです。 

そうなると「思い出せない思い出」というものも他の人と共有しているものかも知れません。夕日を見るとなぜか懐かしさを感じたり、山を見れば晴晴れとした気持になる。人は大きく捉えれば君は僕で、僕は皆だ。 
歩いてくるのはよく見たら自分かもしれない。 

実は打上げの時にこの話をしたかったのですが、まとめないとなかなか正確に伝えにくいので、いずれ文章で聞いてみたいと思います。きっと全然違っているんだと思います。でも僕がそう捉えたのも事実であり、同じものを観ていても幾つもの世界が見える。 
素晴しい詩はそんな許容量を持っているような気がします。 

この詩に曲を付けるのにその同じ構成要素を見方によって違う情景に見えるよう、小節単位でどこからでも出入り可能な無限カノンを作ってみました。伴奏は一小節のみのオスティナートが永遠に繰返されます。 



5月5日、今年も谷川さん親子を招いてのロバハウスライブ「ことばとあそぶ おととあそぶ」が無事終了した。
お客さんの誰もが優しい笑顔で帰って行く。コンサートの楽しさもあるだろうが、ここに至るまでの色んな物を背負った人たちが=谷川さん達や我々やお客さんも含めて集まり、何かが一つになる瞬間を感じるのかも知れない。
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何度話題にしたことだろう。何度でも話題にしたくなることがこの歌だ。
谷川俊太郎・作詞、林光・作曲「幸小学校校歌」=「わたしがたねを」は詩というものが何なのかが伝わる象徴的な作品だと思う。

この詩は曲もシンプルで素晴らしい。そして詩と共に歌として歌うと、何一つ悲しいことも感激するような言い回しもしていないのに涙が込み上げてくる。
公演中にその話題を出しても谷川さんは「ただ普通のことを書いているだけじゃないか」と言うけれど、この普通のことがなかなかできない。
(歌詞を全文載せたいところがありますが、著作権法に関わるので、違法を犯しているサイトを各自で検索してください)

ある意味では子どもが使う言葉しか使っていない。
「みんなでなかよく ちからをあわせる」
などとこんな子どもが言うような言葉で感動を誘う詩人を僕は知らない。

先日、Eテレの「高校生国語講座」で「言葉の達人に聞いてみる」コーナーに俊太郎さんが出て来た。
因みに、うちのビデオレコーダーは「谷川俊太郎」「山下洋輔」「坂東玉三郎」と、あと自分の弾く同じ楽器の名前があれば自動録画するように設定している。
ここで詩を書くアドヴァイスとして、
「『思い』を出来合の言葉に置き換えるのはつまらない。楽しいことをただ『楽しい』と言ってもつまらない。
僕の場合は『自分をゼロにすること』。
自分を白紙にすることによって、そこからほんのわずかの言葉が生まれたらしめたもの。そこから言葉の世界が拡がっていく。」と、明快な答えを言った。

この事は創造する心構えとしては当たり前の事なのだが、なかなかそうはならない。
曲を作るときも自分の出したい思いが強すぎると良い作品にならないし、良い即興だと思うときは必ず自分が無になっている。
前にも述べたが、音楽はやはり空間にある「何か」を汲み取ってくるものであり、自分の器が空っぽでないとそれがうまく汲み取れない。音楽も同じようにわずかなフレーズの断片が生まれ、そこから音楽が拡がっていく。

「こんな事を書きたい。あんな事を書きたい。」などと思っているうちは、人が共感できるものは生まれないだろう。そんなことは百も承知なのだが、出したい自分が旺盛でなかなか達人の境地には近づけない。
ま、ひたすら無心に没頭し作り続けていくしかないのでしょうね?

10周年を迎えた5月5日の谷川俊太郎さん+賢作さんを迎えたロバライブ「ことばとあそぶ おととあそぶ」は、本当に幸せに満ちたひとときだった。
俊太郎さんの詩を改めて思うのは、言葉の中で人も愛も宇宙も虫もうんこもおっぱいも100億年前も後も、全部同じ土俵に揚げられることだ。「生きる」の様な気高い詩に「それはミニスカート」と言ってもいやらしくならないし、「幸小校歌」のように「みんなで仲良く力を合わせる」なんてまるで子どもの素直なそのままの言葉だ。読む人はまず意表を突かれ、この大きな距離を埋めるために想像力をかき立たされる。すでに作者の姿は消えて、結果的にそこに読み手の思いや映像を映し出し、共鳴し心を打つ。
音の世界もこんな風に自由なアプローチを目指したい。

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谷川俊太郎さんと賢作さん(&ロバの音楽座)による毎年5月5日の定番ロバハウスライブ「ことばとあそぶ おととあそぶ」は、2003年に始まり今回で10回目を迎えた。
俊太郎さんとはその前のロバハウス完成時にも2度ほど共演させていただいた。
年々若返っていく俊太郎さんを観て、まるで幼児と接すると若いエネルギーをもらうような感じで、元気になっていく僕がある。

80歳を越えられても朗読するだけでなく、歌ったり、パフォーマンスをしたり、賢作さんとのライブも多い所為か本当に舞台人の様相を成してきた。
歌も朗読も聴かせるというツボを押さえられている。
家には多くのこの会の録音があるが、あきからに10年前と比べると良い意味で本格的な舞台人になられた。
特にロバの音楽座も絡むロバハウスでのこの面白さ、この世界観はいくら言葉を使っても書き表す事は出来ない。ご興味のある方は是非とも5月5日を万事を差し置いて予約されたし。
まだ10年先まではやっているような気がする。 Tanikawalive
Photo by FUKAHORI mizuho

ライブの数日前に、俊太郎さんのどの詩が今まで一番感銘を受けたのだろうかと、家にある本をいろいろ読み返してみた。
それぞれの時代に素晴らしい作品があるのだが、改めてすごい思ったのは20歳になる前位に書かれた処女作「二十億光年の孤独」にある一連の作品群だ。
恐らくそれはラジオをいじる事と同様、人に読まれる事など意識せず書いたもので、今まで心の中に溜めていたものを一気に溢れさせる事になる。

題にもなっている「孤独」感は決して感情で表さず、むしろ宇宙と自分との関わりの中で、孤独である事を超越してしまっている。
これはまさにインド哲学にある「梵我一如」(小我と大我=宇宙は同じ物で区別がない言う考え)を詩を書いているうちに無意識のうちに宿っているのではないかと。
あえて別なもの、矛盾するもの同士のぶつかり合いも、結局素粒子化してしまえば同じ物で、自分も他人も動物も地球も銀河も分け隔て無い。
だからこそどんな物の中にでも自分を入れられる。
そんな考えの基で谷川さんの中での孤独は悠然と楽しんでさえいる。

今まで色んな評論で本人の内部まで嫌と言うほど分析され、今更僕みたいな薄学?の人間が何かを言う事は奥がましかったのだが、公演の後、あえて俊太郎さんに上記のような内容の解釈を聞いてみた。
俊太郎さんはそれに対して優しく丁寧に答えてくれた。

「後から考えればそうだけど、あの時は確かに無意識の中から哲学的なものが生まれてきた。それまで起こった事の様々な感情がああいった形で出て来たんだよ。
宇宙とのつながりは宮沢賢治の影響も少しあるかも知れないなあ。」

正確でないかも知れないが、もっと綺麗な言葉の流れでこういった内容を答えていただいた。
その嬉しいという気持ちをどう表せばいいかわからない!?
宮沢賢治はもちろん至る処に宇宙が登場するが、例えば「鹿踊りのはじまり」を読んだ時にも、嘉十と鹿と太陽との間の違う世界でありながら一点で結ばれている。
まさにこれが「梵我一如」だと思ったのは僕だけだろうか?
結末は嘉十と鹿達は相容れなかったが、そこが現実の中の孤独となるのではないか・・・。

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